痛いの痛いの味わえ『来る(映画)』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)2018「来る」製作委員会

こんにちは、好きなモモアはジェイソン・モモアのワタリ(@wataridley)です。

今回は中島哲也監督作『来る』の感想を書きます。念のために言っておくと映画の名前です。

中島哲也と言えば、思い浮かぶのは『告白』『渇き。』です。『告白』の主演である松たか子、『渇き。』に出演していた小松菜奈、妻夫木聡らが今作にも出演しており、また映画に漂う暗い空気感も似通っているところはあります。

今作を観る上で特に目に付いたのが、そうした今までのフィルモグラフィーとの共通項を見せつつも、より派手な方向性に舵を切ったと思われる作劇です。

予告においても、強烈なキャラクターをアピールする演者、目まぐるしく映り込む見せ場の数々、耳に不快感をもたらすサウンド、それでいてどこかエンタメ然としているあやふやな感じは、今までに類を見ないくらいユニークでした。

ホラージャンルでありながら笑ってしまうようなシーンもあるここまでアンビバレントな感情を抱かせる作風は中島哲也監督ならではでしょう。

以下に今作の感想と考察をネタバレありで語っていきます。


72/100

ワタリ
一言あらすじ「痛みを知らない大人がキライ」

辛さから逃避する登場人物

この物語は辛い現実に目を向けようとしない者たちが“あれ”に襲われる人間たちの悲劇を映している。

一人ひとり振り返っていくと、明白に“あれ”に狙われる原因たる共通点が浮かび上がってくる。

 

妻も娘も顧みない秀樹

この映画は3章仕立てである。まずはじめのパートは秀樹の視点になっている。

彼は製紙会社に勤めるサラリーマンである。ある日売り込みをかけた店で働いていた香奈に一目惚れをし、猛アタック。ついには結婚し、彼女との間に一女をもうける。

しかし彼の専らの関心は彼女たちではなく、良き夫、良き父親を演ずる自らにあるようだ。法事の際には居心地悪そうにしている彼女の様子に目もくれず、「後でとやかく言われないように」と彼女に手伝いを強要する。ホームパーティで気分が悪くなったと言われた時も、中断するわけでもない。それどころか、穏やかな物言いで我慢するよう頼んでいた。

懐妊を告げられて始めたブログにしても、その内容は香奈の目に映る実情とはかけ離れていた。妻子への愛を書く一方で、家事育児の手伝いに苦労する様子は殆どない。美辞麗句を並べて勢いよく訴えかける文体にどこか違和感を覚えてしまうのは、秀樹という人物の無自覚なデリカシーの無さに加えて、そうした建前だけは一丁前な人格が手に取るようにわかるからだろう。

これが意識的になされていたのなら、まだ香奈も怒りのぶつけどころには苦労しなかったかもしれない。しかし、こちらの神経をも逆なでしてくる秀樹の一挙手一投足はどうも本人も無自覚だ。

何かにつけて香奈が困る様子を特に深刻に捉えていないこと。娘が病に伏しても取り乱すことなくブログを書いていたこと。それすらパパ友には「冷静に構えていた」と功績のように語っていたこと。どれを取っても悪気が感じられないのが、かえって不快である。

妻夫木聡氏はその爽やかなパブリックイメージを覆すほどの好演、ならぬ悪演である。おかげで今年の映画で最も印象深いキャラクターの1人となった。

幸せを装い、上っ面で生きる彼が”あれ”に襲われてしまったのは、悲劇的ではあるが半ば必然でもある。

(C)2018「来る」製作委員会

 

逃れたくても逃れられない香奈

そんな夫を持ってしまった香奈の結婚生活は、とにかく苦難に満ちていた。

秀樹の実家へ顔を出した時のデリカシーのない周囲との温度差が、まず最初に不愉快である。黒木華の表面上は穏当にしながらも内側から滲み出る困惑が、生々しくこちらに伝わってきた。秀樹に対する不満を行きのタクシーで述べるも、それさえ取り合ってもらえず、けっきょく法事の最中に秀樹や彼の母に振り回される。彼女の置かれている状況は、結婚目前でありながら、およそ幸福には見えない。

秀樹による熱烈なキスの際にかかる結婚式定番の曲も、見せかけの幸せを如実に示していた。プライバシーにズカズカ土足で踏み入り、大衆の目に晒し上げるような演し物を許容しなければならない香奈の立場を考えると、あの結婚式の場面ははらわたが煮えくりかえるようであった。

秀樹が主役然と立ち振る舞っていた一方、香奈は女友達や津田と淑やかに談笑していたあたり、そもそも2人は全く性質の異なる組み合わせである。

それ自体はまったく問題はない。しかし、秀樹の無自覚な外面の良さの皺寄せは香奈に向かってしまう。この実質的支配関係はこの法事、結婚式、ホームパーティなどのエピソードでじわじわと提示されていた。そしてその後、いよいよ軌道に乗った彼らの結婚生活は案の定秀樹の無理強いによって成り立っていた。

法事の夜、また秀樹が死んでから再開したパートの休憩中、タバコを吸っていた姿が頭に残る。これらは秀樹の前では行なっていない、本来の彼女の自然体なのだろう。だが、子どもが出来、秀樹の目がある中で彼女の本心は抑圧された。

どうして香奈はこんなに嫌な生活から抜け出さなかったのか。それはあの不貞腐れた母親と共に過ごした荒んだ家庭環境が目の端にちらついていたからだろう。香奈は回想から推測するに、どうやら子供のころに虐待や育児放棄にあったらしい。片や父親の存在は全く触れられない。経済的に裕福とは到底思えない。おそらく大学も通えなかったのではないだろうか。

そんな環境で育った彼女は大人になって独り立ちしてからも、スーパーのパートとして働いていた。そのことについても香奈は秀樹の死後に改めて不満を滲ませていた。

家族が原因で苦汁を味わうハメになった彼女にとって、秀樹の存在は救いだったにちがいない。後ろめたい過去を取り払うのに、幸せな家庭環境の構築はうってつけに思える。

だから、秀樹からの少々の無理も受け入れられ、結婚まで出来たのだろう。しかし、彼女の望んでいたであろう幸せな家庭像というものはあっさりと加速していく秀樹の傍若無人な振る舞いによって蔑ろにされてしまう。

香奈は、かつて味わった現実の辛さを再来させまいと秀樹との関係を保ち続けた。しかし、それは”あれ”の登場により、終わりをつげた。彼女は育児と仕事にすり減っていくにつれて、その現実逃避的な振る舞いを増長させてゆく。津田との不倫のために、知紗を家に置いてめかしこんで出かけるその姿は、皮肉にも彼女の母親と被る。

香奈も結局は不仲だった母親と近しい存在であった。何なら辛いことに視線を合わせていないという点では、不幸の元凶とみなしていた秀樹と同じなのである。

もっとも、無自覚的にそれをやっていた秀樹と、辛い現実にあてられて逃避に走った彼女とでは、彼女のほうが幾分共感できる部分はある。最終的に”あれ”に襲われかけた晩には娘への愛情を取り戻していた。

だが、不幸にもそれは遅すぎたようだ。

(C)2018「来る」製作委員会

 

回避から直面へシフトした野崎

映画において、やや遅れて登場する主人公の1人、野崎はキャバ嬢兼霊媒師の真琴とただならぬ関係にあり、”あれ”を恐れて相談してきた秀樹を助太刀することになるオカルトライターである。

彼はこの映画の3人の語り部のうち唯一生還した人間だ。どうして彼だけが異なる顛末に至ったのか。

理由はシンプルだ。それは、彼だけが真琴というパートナーと向き合おうとしていた。最終的には知紗にだって同情していた。他者と痛みを分かち合っていたのだ。

劇中、知紗とのかかわり方をめぐって真琴と野崎が口論していた。一見すると険悪なシーンである。しかし考えてもみると、人と人とのぶつかり合いは、この映画においてとても新鮮に思える。

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秀樹も香奈も互いに本音をぶつけあい、その後の関係性が変化するというようなことはなかった。病院で診察している間に知紗への無配慮を咎めた時も、結局秀樹の側がまるで深刻ではなかった。香奈も直接的な衝突に関しては諦観したのか、その後は非常に回りくどいやり方で秀樹の不安を煽る行為に及んでいる。

野崎という人間は初登場時こそ傍観的な立場にあったものの、”あれ”にあたふためく田原一家と関与するうちに、他人事ではいられなくなっていく。妻子が襲われそうになった時には家へ戻るよう秀樹に強い声をかけ、秀樹が死んだ後には香奈に対して必死になっていた彼へのフォローを入れている。やがては知紗という女の子に慣れ親しんでいく真琴を見ているうちに、「失わないために」かつて家族を捨て去った過去がフラッシュバックし、いったんは彼女を除けてしまう。

だが、かつて妻に妊娠中絶をさせた彼にとって、”あれ”の正体は大きな意味をもつ。今大切な存在である真琴も、その真琴が大切にしていた知紗も連れ去られてしまった時には、いよいよ無関係ではいられなくなった。

この気持ちの揺れ動きは弱弱しくもあれば、頼もしい変化でもある。彼は苦難に対して逃げ腰をうたなかった結果、唯一”あれ”から逃れられた実例となっている。

(C)2018「来る」製作委員会

 

ぼぎわんとは何者か

秀樹、香奈を死に追いやり、多数の霊媒師たちにも被害をもたらしたぼぎわん。その正体は、古来の風習や両親の勝手によって死んでいった子どもの怨念が寄り集まってできた化け物だと示唆されている。

もっというと、ぼぎわんは現実逃避へのアンチテーゼだと捉えることができる。

作中では、危篤状態の老人を呆然と見守る幼少の秀樹や虫を潰したりして遊ぶ昔の知紗の姿が映されている。あまりに幼い子どもにとって、他の命の重要性にはまだ気づいていないということである。子どもの頃は平然と虫を潰して遊ぶことがきでても、大人になるとそれに抵抗感を覚えてしまう。命の消失が不可逆であると身に染みて理解したからであろう。それに、他人が感じる痛覚への想像力も働いてしまう。もちろん生理的嫌悪感から来るものもあるだろう。どちらにせよ子供の頃にしていたことが出来なくなる背景には、虫という生命に対する理解が少なからず存在している。

嘘をついて自分の世間体を取り繕う秀樹が、香奈の苦しみに気づくことができていなかった光景はまさしく虫を平然と弄ぶ子どものようである。育児から目を背けてブログの執筆。世間への体裁ばかりを取り繕いながら、家庭へは非協力的。その皺寄せに気づく様子もない。

そうした共感力の欠如は、巡り巡って娘の知紗にまで影響していた。保育園に呼び出された香奈の目に映ったのは、他の子に靴を投げつけて笑う知紗だった。彼女はまさしく他人の痛みに気づけないことを象徴している。

また、保育園で投げられた靴を追わずに帰ってしまうシーンにおける香奈=黒木華の虚ろな表情は、痛みに直面することさえ諦めてしまったかのようである。怒りに身を任せて靴を投げた年配者に比べて、見るからに生気を失っている。痛覚を失った人間は死んでいるも同然と物語っているシーンである。

ぼぎわんが迫ってくる際にどこからともなく表出する青虫は、視覚的に気色悪いが、これもまた共感性に通じてくる。青虫はやはり子どもたちに翻弄される小さな命であり、いとも簡単に殺せてしまえる儚さを匂わせている。

ぼぎわんの特徴をもうひとつ読み取れるヒントに鏡やナイフがあった。親からのネグレクトや虐待によって自己肯定感の低い子どもにとっては、自分こそ目をそむけたくなる対象ということかもしれない。

琴子曰く「死者は生者に惹かれる」らしいが、子どもであるぼぎわんが強く惹かれるのは、同様に青虫を捻りつぶせるほど感覚が麻痺し、神経をすり減らしてしまった者たちだ。

最終決戦前にナイフを腕に突き刺された秀樹には痛覚がなかった。この時に逢坂セツ子が言っていた「痛みこそ生きている証だ」というセリフはぼぎわんの正体、ぼぎわんに付け狙われるものの共通点、そして今作の主題を端的に表している。秀樹は、痛覚はおろか自分が死んでいることさえ気づかずに、幸せな家庭像をセツ子に語っていた。最後の最後まで現実を直視できていなかったのだ。だが、どれだけ辛くとも現実に向き合わなければ、あとに待ち受けているのは後退だ。

知紗が消えて以降、「なぜか」更新されていたブログは、秀樹が作り出したフィクションである。生者と死者の間をうろついていた知紗にとっての格好の逃げ場であったために、夢の世界が再び作動していたのだろう。

(C)2018「来る」製作委員会

これらと見事な対比になっているのが、真琴である。彼女は一緒に知紗と遊び、仲良くなる。そうして体についていた痣に気づき、自ら付けた痕なのだというところまで考え至っている。親から「あげる」と言われてしまった時には、知紗を憐れんでいた。彼女は他者の痛みを自分の痛みにすることのできる人物なのだ。

その危機から彼女たちを救い出す役目を負った野崎は、最終的に子供を産めない真琴も、親に相手にされず化け物と戯れてしまった知紗も受け入れ、マンションの一室から地上へ落下する。彼は身をもって痛みを受け入れた。

ぼぎわんと霊媒師の激しい攻防が終わったラスト、彼は全身に走る痛みをもって生を実感していたように、この物語は痛みを伴う現実を至上に置いている。フィクションに耽溺する秀樹や不義に溺れてしまった香奈が遂げた凄惨な最期とは対照的に、3人で寄り添いあう穏やかなラストがそれを思わせる。

だが、ぼぎわんはどうやら完全に消えたわけではないらしい。

眠っている知紗は相変わらず楽しい夢を見ていた。「外でオムライスを食べたい」とかつて秀樹に告げていた彼女が見ている夢は、「オムライスの国」なる一風変わった風景である。劇場ではここで席を立つ観客がいたことはさておき、彼女の内面には未だにあの時への憧憬が潜んでいて、夢として顕現したのだろう。だとすると、ぼぎわんが付け狙う動機はまだ彼女の中にいる。もしこれから知紗が辛い思いをし、フィクションの世界に閉じこもるようになったのなら、それこそ”あれ”は再び目を覚ますのではないだろうか。

願わくば野崎と真琴がそうならないよう見守ってあげてほしいと思うばかりだ。

 

まとめ: 辛い現実から目を背けるな

この物語が描かんとしているメッセージは、『Inside Out』を思い出す。(邦題は『インサイド・ヘッド』と言うらしい)

生きていく上で苦難や困難は避けられない。

これは決してネガティヴなことではない。それこそ生きていることの証であり、喜びを喜びと認識させてくれるスパイスである。それに苦しみは人生にとって必要かどうか以前に、絶対に避けられないのだから、それさえ血肉にしながら生きていくしかないのだ。

どんな苦しみも悲しみも人生を形作るパーツであるし、過ぎ去ってしまえば過去だ。目を向けて、どう対処していくかを考えれば現実上での道筋はいくらでも考えられる。

おとぎ話や神話の類のフィクションは、たしかに楽しいのだが、そればかりでも人生は回らない。秀樹のように実情に目を向けないでいると、いつか痛い目に遭う。今作ではぼぎわんという怪物を用いてその警鐘を鳴らしている。

登場人物はみな魅力的であったし、個性が突き抜けてもいたが、一方で秀樹や香奈の取った行動は自分にだってあてはまる。全く他人事ではないからこそ、ぼぎわんに襲われる可能性はあるのだ。

ブログを書いていたら、どうも後ろから寒気がしてきたのdくぁwせdrftgyふじこlp

ドンッ

(C)2018「来る」製作委員会

お し ま い

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