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こんにちは、食べる前までは無性に食べたくて仕方のない家系ラーメンをいざ食べてみるとお腹一杯で苦しくなるワタリ(@wataridley)です。
暑い日差しが照りつける7月下旬の日曜日に、上田慎一郎監督作品「カメラを止めるな!」を遠出して観てきました。
結論から言って今作はとんでもない傑作です。マイオールタイムベスト10に余裕で入り込んできました。筆を執っている今も、この作品を鑑賞して得られた多幸に浸っています。
ですので、本レビューは一種の陶酔状態に陥りながらのものとなります。多少の粗があるかもしれませんが、お付き合いいただけると幸いです。
尚、作品の性質上ネタバレは決定的に鑑賞の満足度を下げてしまう危険性があります。
そして、本レビューはネタバレを含んでいます。鑑賞された方と感想を共有する目的で書いておりますので、「まだ見ていない」という方はこのページから一旦退いて、映画館のサイトにアクセスし、「カメラを止めるな!」のチケットを予約し、鑑賞してから見ていただきたく存します。
92/100
目次
フーン、よくできたワンカットゾンビドラマだね。でも…
ファーストカットは恋人がゾンビになってしまった女性の叫び。
しかし、どこか迫真に欠ける芝居だと感じるや否や、監督のダメだしによってこれが劇中劇であることが明かされる。42テイク目だという撮影はクライマックス部分でのリアリティ監督が拘るせいで、なかなか難航しているようである。
(C)ENBUゼミナール
この時、女優にかける言葉がやけっぱちに熱がこもっているし、ゾンビ役の俳優に対しても因縁をつけるかのような口調で責め立てている。
そんな精神的にも肉体的にもハードな撮影を一区切りつけ、キャストとメイクが休憩している折、異変は起こる…。
臨場感溢れるカメラワーク
ゾンビ映画の撮影をしている彼らがゾンビに襲われるというシチュエーション故なのか、カメラで追うような撮影方法が採用されており、それが大きな臨場感を生んでいる。頭から尻尾までワンカットで撮りきられている手法は、観客の集中をフルに引き出すのに効果的であるし、何よりこの映像表現は新鮮である。
登場人物に合わせて滑らかに移動していくカメラワーク自体は、技術的にはなんてことはないのかもしれない。今や、邦画でもアクションシーンのレベルは上がってきているし、それに応じてカメラワークの練度も向上してきているのは間違いない。かつては、人が走るシーンを撮る際にブレを生じさせないことが困難な時代もあったようだ。だが、ステディカムが登場し、ブレ無しで撮ることなんて大したことではなくなった。今はもうカメラのスペック・形状・周辺機器が大きな進化を遂げているため、撮影できないものは非常に限られてきていると言えよう。
そんな状況だからこそ、テクノロジーにかまけてしまう部分は大いにあるだろう。
資本が投入された大作映画がリアルな質感のCGや高度な技術力を感じさせるカメラワークを取り入れても、結局のところ真の意味で臨場感があるかと問われるとノーだ。技術屋が集い作ってしまったからこそ、シーンはまるで完璧な作り物めいていて、そこにリアリズムを生む生傷や汚れは存在しないのだから。
この「ONE CUT OF THE DEAD」は、そんな最新技術を採用できないような小規模映画であることを逆手にとり、極めて原始的な方法でもって我々に生々しい映像を届けてくれる。
女優がゾンビと大乱闘を繰り広げるシーンでは、カメラは地に転がり、我々もその混沌に巻き込まれているかのような錯覚を起こす。ある時には、暗いトンネルの中を女優と共に走り、出口に現れたゾンビに共に絶望感を覚える。彼女が階段を昇る際のショートパンツ姿のバックショットにドキッとし、筆者の下心に火が灯ったのは内緒である。
随所に感じる詰めの甘さ
と、ここまでこの映画のプリミティヴな撮影手法とゾンビから逃げ惑う臨場感について賛美の方向でレビューしてきた。
ところが残念なことに、この作品は練不足なのか、それとも演出が明後日の方向に飛んでいるのか、不自然な描写が数多く見受けられる。
まず、時折役者たちが妙に不自然な挙動をとる点だ。
メイクの女性は護身術を習っていることを休憩時間中に口にするが、この場面に流れる居心地の悪さは一体なんなのだろうか。彼女が護身術のレクチャーをしている最中も、キャストの2人はどこかぎこちない表情を浮かべ、無理矢理に話に付き合っているようである。
また、のちにゾンビからの急襲をひとまず回避した後の会話の意図もよくわからない。男が恋人に怪我はないかと安否を尋ねるのはまあいい。その後にメイクに尋ねるのも自然だ。しかし、この後にメイクは全く同じように怪我の有無をオウム返しする。まったくもって謎である。
挙句の果てには、「ちょっと」と呟きながらわざわざゾンビのいる野外へ飛び出すスタッフが出てきたりしてもう何が何だかわからない。この行動の裏に何があるのかは終ぞ明らかにならなかった。
その後、監督がカメラ目線で「撮影は続ける!カメラは止めない!」などという第三の壁を破っているとしか思えない台詞を口にする。彼の手には劇中の映画を撮るためのカメラが握られているにも関わらず、カメラ目線で語るのである。もはや演出上どんな意図があるのかはまるで把握できず、困惑せざるを得ない。
(C)ENBUゼミナール
このほかにも、女優の驚き顔ばかりがアップされ肝心の殺し合いを全く映さなかったり、斧が都合よく地面に落ちていたり、死んでいたはずのメイクが正常に起き上がって何かに驚く様子を見せたり、最初のシーンに対応したクライマックスシーンで同じやり取りを2回繰り返したり、と不可思議なシーンは数多い。
このように、今作は軽く叩くだけでボロボロと埃が出てきてしまう。カメラワークによって臨場感を紡ぎだす巧みな演出技法とこれらの不可解な作りとが、まるで取っ組み合いの喧嘩をしているようである。
まだまだ改善の余地は多分にある。しかし、総合的には大いに楽しませてもらったので、これを撮った監督・スタッフ・キャストの次回作はより精度を高めてくれることを願うばかりだ。
妥協だらけの父、妥協嫌いの娘
以上がワタリによる短編映画「ONE CUT OF THE DEAD」のレビューでした。作品に敬意を込めて、あの映像が実際にテレビで流れているのを視聴して…という想定でやってみました。
「カメラを止めるな!」は実に奇妙な構成をとっていて、この短編映画が第一幕にあたります。体感時間的にはまだ半分も終わっていないというのに、急にスタッフクレジットが流れ出した時の驚きと、その後のオープニングタイトルにはニヤリとさせられました。
第二幕では、「速い・安い・質はそこそこ」で仕事をする日暮隆之と、「撮影現場は戦場」だと語るほどのパッションを持つ娘の日暮真央を主軸としたドラマが展開し、「ONE CUT OF THE DEAD」制作当日までの過程が描かれています。
父・隆之の妥協精神について
モノづくりに携わったことのある人であれば誰しもが直面する問題が、納期や予算あるいは技術的制約といったものですね。
日暮は、再現VTRの監督をしている日々の中で、予算面では本格的なドラマや映画に比べて小規模であるためか、適当さを前面に押し出しながら仕事をしていました。屋上で車いすの男性を撮るシーンでは音楽を被せるから芝居は適当でいいと言うほどに、隆之の頭の中は惰性やらメンネリズムやらが支配的なようです。
画面も観ずにオッケー出しちゃう描写なんて、それで仕事成り立つのかと笑ってしまいました。
ノールックオッケー問題はともかくとして、モノづくりにの世界においてどうしても妥協がついて回ってしまうというのは歴然とした事実です。世の中みんなが頭の中にある理想の設計図に基づいて理想の環境でとれるなんてことはまずあり得ない。理想のキャスト、理想のスタッフ、理想の設備、理想の技術、理想の…。そんなすべてが揃った作品があるとしたら一度お目にかかりたいです。
撮影のために家を壊すほど映画に拘りを持っていたかの黒澤明でさえも、撮影が思うようにいかないというエピソードは数多くあります。「影武者」で起用する予定だった勝新太郎と決別しその代役に仲代達也がキャスティングされた話なんかは有名でしょう。人は思うようにいかない問題を避けることはできないのです。
(C)ENBUゼミナール
「ONE CUT OF THE DEAD」はすでに冒頭で目にしているため結果は見えているのですが、やはり制作過程でも困難がありました。
俳優の神谷和明は細々とした所に口うるさいわ、アイドルの松本逢花は事務所を盾にNG出しまくるわ、カメラマン役のおじさんは酒浸りで倒れるわ、録音マン役の男性はお腹が弱い上にやたら問い詰めるわで、混乱という言葉を画にするとしたら彼らのような形になるに違いありません。現場とは常にトラブルがついてまわる生き物なのです。
それを長年仕事をしてわかっているからこそ、どうしても適当になってしまう部分はあるという気持ちはよくわかります。娘に妥協の象徴である目薬を投げつけられてしまい、「ONE OF THE DEAD」でちょっとした冒険に繰り出す彼の姿は、それだけにちょっと頼もしいですし、応援したくなります。ついでに娘がファンである俳優と一緒に仕事してる父ちゃん凄いだろ?という気持ちもあるのやもしれません。
妥協したくない娘・真央
そんな隆之とは真逆の位置にいる真央。
(C)ENBUゼミナール
彼女は若さゆえなのか、現場に妥協が必要な場面もあるという考え方に理解ができないようでした。子役の涙は目薬じゃなくリアルな本物でないといけないと考え必死に諭す様子が、父のVTRの撮影現場での態度とは面白いぐらいに対照的です。監督らしき人がポロリと「間に合わせないといけないから」と口にしていましたが、真央にとっては納期なんかよりも質が第一なのでしょうね。
彼女にとって母親が女優を辞めたことも疑問のようで背中を強く押しますし、とにかく直向きに自分のやりたいことをやるという精神性も見て取れます。
撮影現場における妥協や人生における諦めを知らない真央とそれらを知っている隆之。彼らが成り行きで同じ現場で仕事をして、化学反応が起きるというのが第三幕のメイキングオブ ONE CUT OF THE DEADになっています。
それにしても、演じていた女優の真魚さんは、声質や表情が生き生きとしていて鮮烈な印象を残していました。個人的に最も好きな場面は、憧れの俳優の名前を聞いた時の乙女チックな反応と、その彼が父親のドラマに出るという一報を聞いて出したドスの効いた声のギャップを披露するところです。
種明かしで繋がる爽快感
「ONE CUT OF THE DEAD」の当日、デキていた監督役の俳優とメイク役の女優が事故で参加できなくなったというアクシデントを機に、撮影現場はハプニングに見舞われまくります。
まずキャストの穴埋めといて矢面にたつことになった隆之。そして妻の晴美を推したのが真央。
隆之は切迫した状況に駆られて仕方なく、というある意味で今まで通りの妥協的発想に基づいてだと思うのですが、真央については母親の女優の夢を若々しい発想で後押しするというところで、両者の違いが読み取れます。
このように、コンサバな隆之とアバンギャルドな真央という全く思想体系の異なる者同士が同じ現場で仕事をするという状況は、裏テーマであるモノづくりの大変さと楽しさを引き立てているのではないかと思います。
ハプニングはキャストの不在に留まらず、酒飲みのカメラマン役が本番で泥酔したり、録音マン役がお腹を下して外に出ようとする様子が映ったりと、散々で中止の危機もありましたが、そこは真央の手によって阻止され、本番中に機転を利かせる高度なスラップスティック劇が展開されていくわけです。
真央のおかげで、録音マン役をゾンビにして辻褄を合わせることができましたし、隆之の奮闘のおかげでカメラマン役のゾンビぶりを演出することもできました。
(C)ENBUゼミナール
こうした撮影の裏側で、映画冒頭に流れた作品の不可解な描写が次々と繋がっていく様は、実に気分爽快。笑いを交えながらモノづくりの大変さを身に染みてわからせられる一方、最後には達成感を覚える彼らの表情には心を動かされました。
惰性的にVTRの撮影を流していた隆之の姿は、ワンカットドラマの撮影の最中みるみると精気に満ち溢れていきました。現実的な道を選ぶよう勧めたプロデューサーに対して、血の印を見下ろすカットが無ければ作品は成立しないと語気を強め矜持を譲らない様は、かつての彼の姿とは真逆です。
玉虫色に誤魔化しを入れていたキャストへの態度も、映画冒頭で本音を交えて叫んでいたのが実に痛快でした。本音をぶつけた後、撮影を続行する過程で、男優に「考えすぎはよくないよ」と労い、ゆるやかに和解する様子は愉快でした。
一方で、真央もまた、撮影を通して妥協の重要性を知っていったのではないかと思います。
このドラマはハプニングの嵐に見舞われているように、とても理想や完璧とは程遠いです。真央が毛嫌いしていた目薬を主演女優がのっけから使っているというのも、一種の妥協精神を認可した撮影現場であることを暗示しています。
しかし、作品自体が崩壊しかねないという危機に際し、彼女は頭を絞ってなんとかドラマを成立させようと踏ん張るわけですよ。これが本当に心動かされる成長に映りました。子役に本物の涙を求めたように、とにかくストイックな姿勢を貫き目薬をぶん投げていた彼女が、完璧とは言い難い作品を今持てる限りの力で携わっているのです。
傍から見れば不格好な物かもしれません、けれど、そこに熱情を注いでくれたからこそ、作品は我々の元へと届いてきました。
最後に写真を差し出していた様子を見るに、今回の件を終えて真央は父親へのリスペクトも持つようになったことでしょう。クレーンショットを再現するために肩車をしていた父と娘の姿が、幼少の頃の写真そのものである憎いオーバーラップに胸がすっとしました。
今作を振り返ってみると、驚くべきことに最初の映画が最後に繋がっていますし、中盤のドラマもこの終盤に集約するようになっており、全編ムダがありません。
第一幕はワンカットゾンビものとしての面白さで客の興味を引きつつも不自然な描写をばら撒いた上で、次の話にバトンをつないでいます。第二幕の隆之たちの背景を見せることでモノづくりへの考え方を明確にし、第三幕で彼らが共同作業をしてその中で第一幕での疑問が氷解していくという流れが実に巧みでした。
カタルシスという言葉はこの映画のために存在するといっても過言ではないのです。
観客にテーマを切に伝える三重構造
今作はだれが見ても面白いと思える話運びである一方で、構造としては三重になっているという特徴があります。
最初我々がスクリーンで目にするのは、いわゆる劇中劇ですよね。「カメラを止めるな!」世界の「ONE CUT OF THE DEAD」なのですから、そうなります。
血の呪文が描かれた屋上と血まみれの女優を見下ろすラストカットが終わると、撮影カメラのモードが切り替わり、「はいカット!」の声を以て、今まで流れていた映像が作り物であったことが判明します。この時点では「カメラを止めるな!」「ONE CUT OF THE DEAD」の二段構えです。
ただ、この映画は最後の最後に、これらを包み込むさらに外側が描写されているんですよね。カメラが撮影モードを切り替えるという演出は、映画の最後に再度用いられています。そして隆之たちがあの手この手で撮影していたとされる過程が、実際のメイキング映像としてスタッフロールと共に映し出されていました。
劇中では、腰痛持ちの撮影監督が途中で撮影助手に交代し、彼女がズームインとアウトを多用するという一幕がありました。それに負けないぐらい現実も大変のようでした。実際のカメラマンは、女優とゾンビが取っ組み合うシーンで、手が空いた隙にすかさず水を補給してもらっていました。とんでもない過酷な撮影だったということが、ここで改めて伝わってきます。
市原洋さん演じる撮影助監督役もメイキング映像では劇中とまるで違う姿。作品の中では本物の吐しゃ物を浴びせられ、「カットしないで欲しいな」と言っていた斧を使う見せ場を晴美の暴走のせいでナシになってしまう間の抜けたキャラクターで笑いを誘ってきました。それと裏腹に、最後のメイクアップ風景でスタッフと一緒にキビキビとゾンビになる準備をしていた様はギャップを感じました。
「『映画を作るのはとても大変である』という映画を撮っている人たち(現実)」の視点が最後に観客にもたらされることで、様々な苦渋を現実のものとして感じさせられますし、だからこそ作品は面白いのだなと改めて考えるに至りました。
メイキング映像を最後に流す映画は多かれど、ここまで切実に映画の内容と結びつく映画は初めてです。スクリーンが明るくなった後の観客たちの喜々とした様子には、制作者ではないにも関わらず、自分も嬉しくなりました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!