アイキャッチ画像: (C)2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO.,LLC
こんにちは、はやくスマブラSPECIAL出ないかと心待ちにしているワタリ(@wataridley)です。
今回はスピルバーグが設立したスタジオのアンブリン・エンターテインメント製作、監督はイーライ・ロスが務めるファンタジー映画『ルイスと不思議の時計(原題: The House with a Clock in Its Walls)』をレビュー。
予告編、ポスター、タイトルすべてが魔法を前面に押し出しており、キャストもジャック・ブラックとケイト・ブランシェットが出演し、掛け合いを披露する姿があります。
この手の魔法ファンタジーものというと、同じく今秋公開される『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』もとい『ハリー・ポッター』シリーズが真っ先に思い浮かびます。
強大な先駆者が居座ってる中、今作はどのようにして差別化を図るのかを考えると、それは限られたキャストによる密な演技合戦なのかもしれませんし、主人公の男の子に寄り添った誰でも親しみやすい物語かもしれません。あるいは、予告編で目につく「二流魔法使い」が繰り広げるスラップスティックなのではないかと期待していました。誰でも無意識にそういった差別化要素を期して劇場に行くと思われます。
ところが、今作にはそうした独自の魅力を感じることが全くできませんでした。ありふれた凡庸なお話であるばかりか、どこかで見たような要素ひとつひとつの練度までもがそれほど高くなく、2時間の映画体験に魔法と聞いて生じるときめきが殆ど見受けられませんでした。
この不穏な前置きを読んで察せられると思います。今回のレビューはかなり厳しく書いているため、それをご承知置きの上で読んでください。以下からネタバレを含めた感想になります。
38/100
こじんまりとした舞台
今作を楽しめない理由のひとつに舞台の小ささが挙げられます。
『ルイスと不思議の時計』の原題『The House with a Clock in Its Walls』が指す通り、舞台は基本的にルイスの叔父にして魔術師のジョナサンが住まう屋敷。あとはルイスの通う学校のシーンが挟まれる程度です。
このスモールスケールな舞台自体は何ら責められる謂れはありません。自分の好きな黒澤明によるサスペンス映画『天国と地獄』では最初の1時間は家の中しか映り込まないという有様にもかかわらず、これがべらぼうに面白いのです。『天国と地獄』で観客の興味を惹きつけるは、舞台の壮大さなどではなく、めまぐるしい状況の変化や揺れ動く登場人物たちの思惑にあります。
狭ければその分密度の高い物語を展開し、そこに観客を集中させることができる例は、他にも多くの作品が証明してきました。
そして、『ルイスと不思議の時計』は魔術師の家一軒を魅力的に写し、その住人の関係性と心情をスクリーンに映すことができたのか。
答えは否。こじんまりとした舞台にある意味ふさわしいこじんまりとした話が展開するだけでした。
両親を亡くしたルイスがこの家にやってきてジョナサンと家族になっていく過程が後述する説明的な描写によってうわべだけ提示されていき、明らかにバックボーンが描写不足なツィマーマンがそこへ組み込まれていく様には、裏で起こっているはずの心の動きや関係性の変化を捉えてはいません。表層的なやりとりを淡々と繰り広げるばかりで、いっこうに深層部分を見せてくれないのです。
家そのもののビジュアルにしても、上映時間のすべてをカバーしきれるほどの魅了はありません。ルイスがジョナサンの家にやってきた最初の夜に見かけた大量の時計やステンドグラスが見下ろす奇抜な広間は、少しすればその景色にも見慣れてしまいます。そして、その慣れを打破するような更なるサプライズや仕掛けがこの映画には不足しています。動く椅子、動く絵、動物を象った生きたオブジェなどはシーン単位で見せ場はあるものの、振り返ってみるとシーンを跨いで意味を持つといった仕掛けがなく、その場しのぎなのです。
同じ場所を写し続けた結果、見た目の面白さが損なわれており、以下に続く各要素の退屈さと相まって、この屋敷に全く魅力を感じられませんでした。
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退屈で独立したギャグとホラー
冒頭ジョナサンが繰り返す「キモノ」ギャグからして今作のユーモアセンスには疑問が生じていました。
それは杞憂には終わらず、ユーモアと取れば良いのかわからない盛り上がりのないコメディ描写が散見されました。
コメディが得意なジャック・ブラックが出演したと思えないぐらいコメディ回りの描写は安直です。魔法に絡めたギャグは浮遊術を使って人を浮かせてしまう、攻撃がうっかり他の物に当たってしまうなど、どこかで見たようなお約束のネタばかり。天丼ギャグは上記のキモノに加え、動物の脱糞が繰り返されるも、これは本筋の展開に何も結びついてはきません。
挙げ句の果てにはルイスが時計の在りかを占うシーンでは脈絡のないヘンテコな動きをギャグにし、制作者側のしてやったり感がもろに伝わってきます。当然のようにこの動きには意味がないですし、前後のシーンと繋がりが見えません。よってユーモアのセンスがあうかどうかという問題以前にギャグがその時々の一発芸になっており、映画的な面白さに欠けている問題もあります。つまるところ、ユーモアを混ぜたところで本筋に貢献するわけでもなく、むしろ足止めさせる障害物と化してしまっているのです。
この端的な例が世界が滅ぶかどうかという状況下に出てくるパンプキンのゲロや幼児化ギャグで、シリアスな展開に水を差し、本筋をたどる上でのノイズになってしまってすらいます。
このあたりの問題はギャグだけではなく無意味に差し込まれるホラー的表現にも通じており、深夜の屋敷を徘徊するジョナサンをおどろおどろしく映したり、いきなり飛び出てくる時計ギミックの脅かしといったものは、話の進行に何も与していません。「怖いことをしていると思ったら勘違いだった」というシチュエーション自体もありきたりで、ホラー表現についてまわる既視感も気になってしまいます。
アイザックを追わないといけない時に登場する人形たちは無駄にホラーなテイストを織り交ぜていますが、こっちの意識としては逃げたアイザックに向かっているので、ジョナサン達と観客の目線において二重に邪魔な存在と化しています。迫ってくる人形の絵も『トイ・ストーリー』で観たようなものです。もはやホラー映画ではないジャンルの作品も試みているような使い古された演出レベルです。
このように本来物語の流れに乗っかるべきコメディやホラーが、もはや本流から外れて一発芸的に披露されていく様には、苦笑いするしかありませんでした。その割に笑いが漏れる場面も、固唾を呑む場面もないのです。
そもそもこの笑わせと怖がらせを同居させてしまうと、住まうべき場所としての屋敷と恐怖の対象としての屋敷とで分離し、観客にはどっちつかずな印象を与えかねません。ルイスは屋敷での日々を楽しいと思っていたのでしょうか?酷い目に遭う場所なのでしょうか?辛うじてハッピーエンド風のラストで判別がつきますが、道中どっちに取ればいいのか惑わせられました。
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テーマが散逸。何がしたいのかわからない
今作が語りたかったことってなんなのでしょう?おそらくラストの着地を見るに、両親を亡くした者、妹を亡くし旧友を失った者、家族を失った者どうしが出会い、結びついていく過程を描きたかったのではないかと思います。
残念ながら今作のルイス、ジョナサン、ツィマーマンそれぞれの人物描写が浅はかなため、それは全く説得力が足りていない身の程知らずなゴール設定になっています。
まずルイスに関して言うと、彼が両親を失う所からスタートする物語となっているにもかかわらず、その喪失感や悲しみが伝わってきませんでした。いちおう親の不在を悲しむ描写はあります。ジョナサンに占い玉を小馬鹿にされた時、母親の霊(のちに偽物と判明)と会った時、ジョナサンに降霊術を使ったことを告白した時などです。
ところが、それらのシーンではルイスは直球に泣きわめき、見ている側の段階的な感情移入を阻んできます。その涙に至る経緯が欠けているので、ただの水分としかみなせません。母親の霊と会話するシーンにしても、相手がルイスに知り得ない情報をペラペラ語るために、違和感の方が気になってしまいます。
親を失った悲しみの表現がほとんど直接的な感情表現に託され、ミスリードのために使われてしまったために母親の人物像も見えてこない。だからルイスが両親の死から立ち直り、叔父と彼の友人と擬似的な親子関係を結ぶ物語なんだと納得できないのです。
ジョナサンはどうやらかつて家を出て以来疎遠になってしまった妹を亡くし、傷心に暮れる様子も見せていました。ただ、それはルイスとの語り合いの中でしか説明されておらず、彼の内心を窺える材料は他に見当たりませんでした。ルイスと距離を近づけていく過程もぶつ切りの魔法修行パートで済まされているようで、どうにも軽薄な印象が拭えません。
この魔術師修行に前後して、ルイスはタービーとの友情に絡めて「普通」と「個性」の間で揺れ動く様子を垣間見せるのですが、どうもそれも大きなドラマに結びつかず仕舞いでした。結局あれだけよりどころとしていたタービーとは仲違いしたまま、全く取り合っていなかった女の子と仲良くなる流れに一体何を見出せばよかったのでしょうか。
ジョナサンの旧友アイザックが悪に目覚める動機に至っては意味が不明です。唐突に出てきたジャングルの奥地の怪しげな人物に唆され、世界の時計を巻き戻すことを決意するという取ってつけたような動機で、ジョナサンを裏切り、危険な人物を妻に迎え入れていました。これらはすべて回想と台詞で済まされているために、ハリボテのように立体感を欠いたドラマに映ります。1955年という時代背景と彼が帰還兵であるという設定から反戦的な問題提起を行おうとしているのか?と一度は考えてみましたが、どうやら無駄骨だったようです。
メインキャラクターである(はず)のツィマーマンに至っては、観る側に写真一枚で家族を失ったことを察せよという難題を課し、クライマックスのルイスの「家族を失ったんだね」という後出しジャンケンじみた種明かしに、悪い意味で驚きました。
このように最後には適当に喧嘩別れする友人のタービーや直接的に姿を現さないアイザックの説明に尺を取りまくった挙句、描写不足極まりない家族の物語に強引に収束していく。このテーマの散逸っぷりには、ただただ呆れ、劇場で無感動になりました。
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新鮮味のない平凡な魔法
今作は魔法ファンタジーの物差しで測ったとしても、高い点数はあげられません。
お披露目される魔法描写はどれもありきたりで、驚きに欠けています。例として、「火の玉を放る」「ポルターガイスト」「電気を操る」「トランプゲームでイカサマをする」など。どれも魔法を題材にした作品ではやりつくされたようなものばかり。すべてが想像の範囲内に収まってしまっています。
挙句の果てには、魔法の特性を無視して傘を銃のように発砲する芸の無さを露呈しています。これでは、魔法である必要性がないです。
屋敷の不思議な仕掛けにしても「動く椅子」をはじめ、「動く絵」「変化するステンドグラス」「動く人形」「生きたオブジェ」など既視感満載です。すべて『ハリー・ポッター』にも似たものが出てきますが、あちらは行き先が変わる危なっかしい階段や装飾や天井が変化する広々とした食堂といったスクリーン映えする光景も織り交ぜられていました。ホグワーツの外観が魅力的なのは言うまでもありません。また、「マグル」といった専門用語や「クディッチ」というオリジナルスポーツがあの架空であるはずの世界に奥行を与えていました。
それと比べて今作は、よくある魔法描写の再現が終始続いてしまっており、今作を他のファンタジーから切り離す独自性に乏しいです。『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』が公開され劇場で同時期まで上映していたとしても、こちらを敢えて見に行く理由は無いかと思います。
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説明台詞と会話のオンパレード
「舞台がこじんまりとしている」という最初に述べた弱点をかき消すことができない最大の理由が説明台詞です。
今作はさほど広くない屋内で物語が展開する都合上、どうしても登場人物同士の会話に偏るのはわかります。しかし、その会話内容に工夫がなく、事実の開示や心情吐露はすべて言葉で済まされます。
折角魔法使いという魅力的な設定があるのに、それらは会話シーンにおける変化球やグリップに用いられません。ジョナサンとツィマーマンは2人とも魔法が使えるのに、室内で顔を合わせて言葉を交わす姿は完全に一般人のそれです。
台詞ではなく画で語るという映画的技法がおざなりになっており、その結果ツッコミどころが生じている部分もあります。例えば、「魔除けのせいで扉に近づけなかった」とペラペラ説明してくれたものの、魔法で封じているような描写は映像で見せてくれません。しかも敵からの侵入を防ぐのなら子どもが簡単に開けられるようにするなよというツッコミまで浮上する始末。
魔法が用いられたとしても、上記に挙げた通り中庸なレベルに留まっているため、どうしても退屈な気分を誘因されます。ライターからもらい受けた火でボイラーを着火する技、星々に見える光の粒子の集まりといった光景は、現実のマジシャンやプラネタリウムで再現できてしまえそうなものです。そこに印象に残りづらいありきたりな台詞が交わってくるので、ワンダー不足を強く感じました。
ルイスとジョナサンが仲良くなる成果も、面白味のない言葉遊びで済んでしまいます。ツィマーマンと家族になる際にもblack birdにかこつけた言い回しを口にしていますが、彼女と接近する話は逆に台詞で全く説明されていないため、実感を伴って響かないんですよね。自分としてはいきなり3人が家族になる話だったのかと拍子抜けしながら観ていました。
ほとんど毎シーン会話で事実を語っていく形式にも関わらず説明不足というのはほかにも沢山あります。ルイスの両親がどのような人物だったのかわからず仕舞いなのもそうですし、タイトルにある「時計」の危険性が観客にまるで共有されないまま時計探しが進行していく不親切さは作品を追う上で致命的でした。どうしてそんなに必死に夜な夜な探すのか、ルイスがその事件に関与していくのかがぼかされたまま、次々とアイザックやジョナサンの過去に関する説明が続いていくものだから、注意を話のどこに向けるべきか混乱してしまいました。
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総評: 想像を超えるものがない魔法ファンタジー
面白い映画の定義は人によりけりだと思うのですが、特殊効果を用いる口実が得られる魔法モノならば、その方面で楽しませる気概を見たかったです。
そこでいくと、今作は他のファンタジーから拝借しそのまま繰り返したような描写の連続でしたし、折角独自性を発揮できそうな凝った舞台美術もただそこにあるだけで終わってしまい残念でした。ファンタジー映画に求めているセンス・オブ・ワンダーがまったく感じられず、それが大きな落胆となって、自分の中では辛辣な評価となってしまいました。
良いところを挙げておくと、コメディ映画でのイメージが強いジャック・ブラックがユーモアを発揮しつつ、頼りたくなる父性を発揮していた立ち回りは自分には新鮮に映りました。ケイト・ブランシェットのエキゾチックな装いも目を引きますし、毒舌キャラながらジャック・ブラックと息の合った掛け合いを見せてくれており、キャストが限られているからこそ彼らの力量によって見せ場が出来ているとも感じました。
ただ、文中触れた通り、この秋には『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』が控えています。それでなくともこの手のファンタジーは年々数多く公開され、流れの激しい分野です。往年のファンタジー作品と比較すると、長い時間を経て今作が朽ちず残り続けるビジョンがまったく浮かんできません。正直非常に凡庸な作品だというのが自分の正直な感想です。
ところで、イーライ・ロス監督の作品を見るのはこれが初めてだったのですが、本来はホラー映画畑の方だったようで、ギャップを感じます。彼の過去作に興味が出てきました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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