『ラストオブアス2』感想: 同化と異化の末に「許し」をもたらした傑作【ネタバレ】

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こんにちは、ワタリ(@wataridley)です。

今回はPS4専用ソフト『The Last of Us PART II』についての所感を述べていこうと思う。

はっきりと言えば、今作は発売されて以降、非常に激しい賛否を呼んだ作品だった。

その原因のひとつに、前作『ラストオブアス』が名だたるPS3タイトルの中でも屈指の評価を受けていたことを背景に、今作の発売前から各所で期待感が高まっていたことが挙げられる。

自分も前作はPS3版を何周もプレイした挙句、PS4版を購入してやはりまた何周もプレイした。限られた物資を手に容赦のない敵からの暴力を潜り抜けるゲーム部分と、中年男性ジョエルが少女エリーと秩序なきアメリカ大陸を横断する内にその凍てついた心を氷解させるドラマの双方にすっかり魅入られていたのだ。

しかし旅路の果てにジョエルが下した決断は、決してハッピーエンドともバッドエンドと安易に言ってはならないと感じるほどに、重大なものだった。幕切れの直前、当時最高峰の表現で肉付けされたジョエルとエリーの表情には、多様かつ晦渋な思考が渦巻いていた。この結末をめぐって、当時から『ラスアス2』が発売されるまでに様々な考察が繰り広げられた。

そうして発売された『ラスアス2』では、感染者と略奪者が跋扈し、いかようにでも話を拡げられらそうなポストアポカリプス世界において、なおもジョエルとエリーを主軸に物語の幕を開けた。

その結果もたらされた批判意見の中には、そもそも彼らのその後を描くべきではなかったという声すら見られた。あるいはプレイしてすぐさま目につく「復讐」や「暴力」といったテーマに対して、あるいは多数のLGBTQに属する登場人物達を取り上げて、あるいは今作の序盤に訪れる衝撃的な展開をめぐって、今作を批判しようとする風向きは特に強く感じられた。

自分自身、このゲームをプレイし終えてまず物語の壮絶さに身をつまされると共に、こんな理不尽な体験などしたくはなかったという気持ちも沸き上がってきた。その結果として、クリア直後の今作に対する評価は実のところ、それほど高いものではなかった。少なくともあの完璧な前作にはおよぶべくもない。そんな評価を下していた。

ところが、その後に振り返ってみれば、それは今作の複雑さから逃避するための評価ではないか。そのように揺れ動く自分がいた。やがて、クリア直後のやるせなさや怒りは、むしろ極限まで高められたゲームの体験性と、周到な脚本、緻密な演出によって獲得されたものだと気づいたのである。

2周目をクリアする頃には、自分は今作をゲーム史に残る紛れもない傑作と結論づけるようになった。今作にしばしば当てられる批判的な意見・感想について、初めてプレイした当初は理解する部分もあった。だが、今となってはそれはむしろ今作の志向したテーマに沿っていたのだと思っている。

このレビューでは今作がいかにして傑作であるのかを、ひとつずつ考察・解釈して、明らかにしていきたい。

当然だが、本文は前作『ラストオブアス』及び今作『ラストオブアス2』のネタバレを含んでいるネタバレありきのレビューである。その点を理解した上で読まれたし。

 

白黒に分けられない人間のグレーゾーン

前作『ラストオブアス』では、ジョエルという男がエリーという少女を、ある意味では自らのエゴで一方的に救い出し、しかも真相を偽ることで平穏を保つという結末が描かれた。

この結末に関して、エリーとジョエルが詳細に何を考えていたのかは人によって解釈が分かれる。しかし誰にでも確実に言えるのは、この結末が幸福か不幸のどちらか一色で捉えることはできないということだろう。

前作でジョエルが繰り出した容赦ない暴力の数々は、その大半が自衛と生存を理由として、ジョエル=プレイヤーの目線に収まる内では正当化できた。しかし、他者からの疑いを向けられてしまった時、それは一方から一方への暴力には留まれない。ジョエルがエリーに対して向けたのは愛だったのかもしれないが、エリーからすればそれは裏切りにも転じうる、境界が極めて曖昧な行いだった。

『ラスアス2』では、のっけからその時2人の間に生じたクレバスに言及する。人によって今作で描かれる前作のラストの解釈に差異はあるかもしれないが、それでもそのグレーゾーンを描こうとする今作の姿勢は、前作のラストが描き出した割り切れない人の感情と倫理に向き合おうとしているように映った。

 

2人の女性主人公とLGBTQ描写の必然性について

決して白と黒で塗りつぶすことのできない人の内面に迫ろうとする姿勢は、今作のポリティカル・コレクトネスにも見て取れる。

まずこれは筆者自身の体感であるが、今作は度々「行き過ぎたポリティカル・コレクトネス」としての批判を向けられることがあるように思う。

今作の2人の主人公はどちらも女性である。エリーはレズビアンであり、アビーは作中である人物から「ぶっとい腕」と形容されるほど屈強な体つきの持ち主である。日本のアニメや漫画でメジャーな少年の恋愛相手としての少女でもなければ、華奢な体つきでもない。

また、彼女らを取り巻く人物としてバイセクシャルの女性とトランスジェンダーの少年が登場する。他にも前作以上に、多様性が増している部分として、明確にアジア系の人物が登場し、敵兵士に女性が紛れるようにもなった。

今作に向けられる批判の多くは、そうした多様さの描写を「過剰な配慮」や「不自然な配置」と捉えたことが原因にあるのだろう。こうした意見が出てくる背景には、もしかしたら普段こうした作品に見慣れていないのかもしれないし、エスニシティとセクシャリティの両面でマジョリティに属する白人男性のジョエルが主人公に据えられた前作を基準にしていることもあるのかもしれない。

しかし、個人的には今作のエリー達は、決してマイノリティへの配慮や見た目上の多様性や先進性を狙っただけの安易な理由で起用された訳ではないと考えている。そもそも「LGBTQといったマイノリティがこうした作品に登場する上で必ずしも確たる理由を持っている必要はない」という議論は一旦ここでは置いておくとしよう(これについては後述する)。とにかく言えるのは彼女達の生い立ちと個性は、いずれも今作のシナリオとテーマに寄与しているということだ。

 

ジョエルに救われてしまった被救済者から贖罪の主体者になるエリー

基本的な問いになるが、そもそもなぜ前作で概ね守られる存在だったエリーが今作の主人公なのだろうか?

結論から言ってしまえば、これは前作でジョエルが犯した罪に向き合うべき人間が、十字架を背負わされたエリーを置いて他にはいなかったからだろう。

これまた今作に向けられる批判的な意見として「ジョエルを引き続き主人公に据えて欲しかった」という声もまた少なからず目にすることがある。しかしその場合には、ジョエルが前作の結末で犯した罪に対して向き合うことはできないだろう。なぜならば、ジョエルは前作及び今作で苦悩こそ抱えども、終盤のあるセリフに象徴されるように、一貫して後悔してはいないからだ。娘のサラを、エリーを抱えた彼の姿に感情を同期させていたプレイヤーであれば、それは手に取るようにわかるはずだ。ジョエルを主人公にしてしまうと、ジョエルの罪に向き合えないという解決不可能なコンフリクトが発生するのだ。

そうなれば、あのソルトレイクでの出来事に最も罪悪を抱える者は、彼の身近にはエリーしかいなくなる。エリーの命には、前作のラストでジョエルによって救い出されたというより、「生かされてしまった」側面がある。そのことをエリー本人はとても敏感に悩んでいる。親友のライリーが死んだ後に、自らの生に意味を見出そうとする彼女は、前作のソルトレイクに辿り着いてから、そのことへの覚悟を感じさせる素振りが見られていた。

世界を救えたかもしれないのに、その可能性を潰してしまったのかもしれないという疑いは、前作のラストにおける「わかった」でも感じ取ることはできた。それは、今作において、エリーのジョエルに対する蟠りとして胸の内に残ることとなる。

今作は、そうした前作のアフターマス(余波)を描く話なのである。それよってもたらされてしまったジョエルとエリーの関係の軋轢と、エリーに負わされてしまったジョエルの罪にいかにして向き合うのか。その双方を引き受けることができるのは、エリーなのだ。

 

罪人のジョエル、そして復讐者エリーの鏡像たるアビー

一方のアビーはというと、これまた彼女はジョエルのエゴの裏側で生み出されてしまった犠牲者である。

前作でジョエルが殺害したファイアフライの医者の娘である彼女は、大義を潰されたことと、愛する者を奪われたことで復讐に囚われの身になってしまう。ジョエルが前作で犯した罪と向き合うストーリーである以上、その裏側としてアビーが出てくるのは必然的だ。彼女が身につけた強靭な肉体は、ジョエルへの執念の象徴でもある。

娘という立場ではエリーとアビーは同等の存在である。どちらも父親を奪われ、奪った者への復讐に身を乗り出し、そして無益な暴力の果てに喪失を経る。ソルトレイクにおける回想シーンでは、父親である医師のジュリーがオーウェンとアビーの関係を父親らしくつつく会話がある。直接的に描写はされないが、エリーがジョエルと生前交わした会話の中に、ジェシーとの関係を疑うものがあったことを語る機会がある。どちらも父親にとって大切な娘であり、似たような会話をする者同士なのだ。

同時に、誰かにとって大切な存在を奪う点においてはジョエルとアビーはやはり等しい存在である。アビーはゲームがスタートして1時間も経たないうちに、プレイヤーにとってもジョエル達にとっても、唐突に現れては、大切なものを奪って去って行く。これは一介の運び屋に過ぎないジョエルが急に病院に現れ、ワクチン開発の可能性を潰し、多数のファイアフライの命を奪い去っていった前作のラストを改めて別視点から描いたものだというのは、言うまでもないだろう。

アビーはジョエルであり、またエリーでもある。この対比関係を構築するべく、アビーが娘であること=女性であることは、ストーリー上意味あることとして捉えることができる。

何よりも、アビーは今作の根幹たる「許し」にも深く関わってくる人物であるが、これについてはまた後述する。

 

エリーと共に「生」と「性」を描くディーナについて

エリーに近しい恋人のディーナ、アビーと結果的に道連れの間柄になるレブもまた、そのバックボーンとアイデンティティはエリー達の物語に与するように描かれており、単に無意味なものとは言えない。

ディーナは今作から登場した新キャラクターではあるが、登場時には既にエリーとの仲は親密である。故に、前作からエリーを見守ってきたプレイヤーの中には、当初は邪魔に感じる者もいるだろう。だが、ディーナもまた今作の物語において欠かすことのできない役割をたしかに担っている。

彼女はアジア系男性のジェシーとくっついたり離れたりを繰り返す一方で、エリーとも恋愛関係を結ぶバイセクシャルの女性として描かれる。恐らくはこの部分が鼻につくとされる部分なのかもしれない。しかし、自分はエリーがディーナというパートナーを得ることは、時が経ち、前作の流れを受けた今作において必然的なものに映る。

重要なのは、前作から一貫してエリーは純粋無垢な子どもとして描かれてはいないということだ。エリーは思春期真っ只中に恋仲に陥った親友に先立たれ、一方で自分は偶然にも免疫を得てしまい、感染者の跋扈する世界で独りそのルールからはみ出した存在に成り果ててしまっている。まだ少女ながら、聡く敏感な面を持つ故に彼女は苦悩する。

そうした孤独感を埋め合わせるために、また単に彼女が肉体的・精神的に大人へと成長していくことにより、誰かと性的な関係を結ぶのは自然なことである。とりわけジャクソンというコミュニティーは大勢の人々が安全な生活を営む場所であり、住人同士で恋愛に至ることだって日常的なことなのだろう。

発売前のトレーラーでも話題になっていたように、今作では序盤と終盤にディーナとエリーの間でキスを交わすシーンが描かれる。一見すると本筋には関係のない、映画に見られるサービスショットのような唐突さを覚える人もいるかもしれない。だが、自分はエリーという存在を清廉な存在にしないために必要な描写であると感じた。彼女は自身の生に意味を求めて苦悩し、ジョエルとすれ違いで心に傷を抱えた一方で、年相応の欲求もあり、愛した者とだってセックスをする。彼女は特別だがけっきょくは普通の人間で、だからこそ成長に伴って傷や穢れも得ていくのだ。

他方、ディーナとの同性愛の関係は必ずしも彼女達に幸福ばかりをもたらさない。作中では、彼女達はいくつかの複雑な問題を抱えている。ジョエルはエリーとディーナの関係についてパーティで気付くまでまるで無頓着だったようであるし、また終盤ディーナとエリーはジャクソンコミュニティの外側でディーナの両親から距離を置いて暮らしている。ジョエル死亡の前夜にあったパーティで、セスという老人とそのことを大勢の前で罵られる場面では、セクシャルマイノリティが現実にも直面する屈辱を、彼女達は受けている。

この時、ジョエルがエリー達を庇おうと横槍を入れてくるのだが、これを単純な救済とは描かないところに、人の機微を描かんとする筆致を感じた。ジョエルの加勢を単に頼もしいこととせず、ソルトレイクの件に絡めて、むしろエリーの苛立ちや後ろめたさを伴った描き方になっている。セクシャルマイノリティは単にマジョリティが守ればよいというものではないし、エリーとジョエルとの間に生じた距離も相まって、複雑な様相を呈しているのである。物事は単純ではないのだ。ディーナという女性がエリーの側にいることによって、そうしたエリーの微妙な内面を描くことができている。

ディーナ自身も若くして姉に先立たれており、あの無秩序な世界の厳しさを経験している。その上、異端審問やホロコーストといった理不尽な歴史を経験した家系に彼女は出自を持っており、かつて姉とよく一緒に行ったというシナゴーグにて、ユダヤ教が説く「生き抜くこと」への理解を示した台詞を口にする。それを履行するようにして、彼女はエリーと2人で生き延びようともがく。もちろん彼女が同行するのは「恋人が危険を冒そうとしているから」という若さ故の身の程知らずな衝動が幾分かあるのかもしれないが、彼女が愛する者と行動を共にする背景には、こうした思想と歴史が関与していることも示唆されているのだ。

更には、彼女はエリーの復讐に対する姿勢を全面的に肯定しているわけではない事は、シアトル2日目で病院へ向かおうとするエリーに向ける憐憫の表情などに現れているし、平穏を取り戻してもなお復讐に縋ろうとする彼女を引き留めようとする葛藤も軽んじられることなく描かれている。これらの描写を顧みれば、決して安易な理由で配置されたマイノリティではなく、マイノリティ故の苦悩と、宗教的・歴史的なアイデンティティを背景にした普遍的な苦悩を混在させたキャラクターであることがわかる。

今作のディレクター兼脚本家のニール・ドラックマンは、イスラエル生まれのアメリカ人であり、ディーナが作中でユダヤ教について話すシーンは彼のバックボーンも関係しているのかもしれない。また彼は女性を性的な魅力とは切り離した1人の人間として描こうとする政治的な主張を感じさせる発言も過去にしている。

今作に批判的な論調の中に、時代の趨勢に押されて一朝一夕の流行りで取り入れたかのような言い分が見られるが、制作された背景を鑑みれば寧ろ真逆だろう。ディーナが語った宗教的な価値観や今作の女性達の描き方は、彼の生い立ちや主義が反映されたものと見ることができる。以下に述べるレブというキャラクターにまつわる制作過程においても社内のトランスジェンダーの社員に意見を募ったという話もインタビューにて出ている。

 

「特殊であること」と言う普遍的な悩みを抱えた少年レブ

レブも自身の女性の身体や社会的役割に強い違和感を抱えた人物であり、マジョリティからすれば特殊な境遇・性質を持っているように映るかもしれない。だが、今作の脚本はそうした特殊性を搾取して作品の権威づけを行おうとしているわけではない。

というのも、レブが直面している問題と、それに対する彼の考えや行動というのは、やはり白と黒に分けられるような明快なものではないからだ。

彼は戦士になることを希望したにもかかわらず、長老に嫁がされることを周囲から強制された結果、頭を丸刈りにして反抗する。掟破りとなった彼は、彼に理解を示す姉ヤーラと共に脱走兵として追われる身になってしまう。

セラファイトというコミュニティは、厳しい戒律と独自の風習によって統制を図っている事は作中幾度も描写されている。ヤーラは組織の規範と価値観に反する悩みを打ち明けたレブに対して、当初は「誰にも言うな」と彼の口を塞いでしまう。このことをアビーに吐露するシーンにおいて、いずれは収まるだろう(言い換えれば性的指向が「収まるもの」である)と考えていたことも口にしている。これは、現実にセクシャルマイノリティがしばしば直面する困難だ。

当人が生まれながらに持った特徴ーー例えば人種、国籍、宗教等ーーによって、差別を受けてしまうことは、小さいレベルであったとしても身の回りで起こりうるものだ。ヤーラ自身の上記の行動は、自分が属するコミュニティの排他性や抑圧を自覚していながらも、そこに従うしかない、ごくありふれた苦悩を映している。

こうした描写は、単にセクシャルマイノリティに限定されたものでは決してないだろう。問題の大小は異なるかもしれないが、誰もが抱えうる悩みである。

当のレブも理解しがたいような特殊な考えのもと生きているわけではない。それは道中で何度もコミュニティの教えを厳格に守っている様子に現れている。ヤーラが重傷を負った際の祈る様子や、恐怖に打ち勝つ方法をアビーに説く会話、またセラファイトの礼拝堂で拝むイベント等、彼は自分が生まれたコミュニティのルールを迫害されてからも重んじたままでいる。その上、オーウェンからサンタバーバラ行きの話を受けても、ヤーラと喧嘩をするほど家族である母親に固執する様子を見せる。

結局のところ、レブは特別であっても、特別故に差別を受けても、「生まれ育った故郷で自分を受け入れてもらいたい」と言う普遍的な願いを持ち続けているのだ。「虐げられたから、その相手を憎む」というような単純な因果には決して留めていない。レブの内面には、故郷を悪ともせず、かといって自分の個性を蔑ろにすることもしない、白黒つけ難いグレーの感情が渦巻いているのだ。

こうした心理と行動は局所的にではなく、プレイアブルパートにおいても、ムービーパートにおいても、何度も積み重ねるようにして表出している。

このように、今作のマイノリティにまつわる描写は、見せびらかすためのものではなく、むしろそこに潜む普遍的な苦悩を描き出している。それでいて問題を白と黒のどちらにも寄せない姿勢は、『ラストオブアス』から誠実に受け継がれたものに、自分の目には映る。

 

意味ないものとしてのポリティカル・コレクトネス

ここまで、今作に見られるポリティカル・コレクトネスの描写について物語の上で「意味あるもの」として語ってきた。これを覆すことになるが、今作の彼女達の存在は「意味ないもの」として取ることもできる。

なぜなら、エリー達について描かれる苦悩は、マイノリティ特有のものであると同時に、やはり我々にも通じうるものでもあるからだ。この物語は、決してマイノリティに限定された苦しみや悲しみを描いているわけではない。人間の誰もが直面しうる問題を体現したのが、たまたまエリー達だっただけで、あれが自分ならどうかと置き換えても問題は成立しうるのだ。

今作の物語のバランス感覚は、こうした部分で優れていると感じる。表象としてレズビアンやトランスジェンダーは出てくるが、その特殊性にまるっきり傾倒しきることはしていない。エリーとアビーを中心に、出てくる登場人物達の行動と心理は「自分ならそうなる」と思えるぐらいロジカルに、しかし浅ましくならないよう非言語に委ねる形で表現されている。

今作のポリティカル・コレクトネスを指差して「マイノリティばかりを主要人物にするのは不自然だ」というような反発も見られるが、これも主観の問題とも言える。現実には、白人の男性ばかりではなく、様々なその他のアイデンティティを持った人々が何ら意味も意図もなくいるのである。今作の主要人物が女性でLGBTQでもあるという設定を確率的にあり得ないと言い切ることは誰にだってできないはずだ。

単なる好悪によってマイノリティが目立って登場するのが気に入らないのであればそう言えばいいだけの話であり、作品側に非があるとするのであればそれを確たる根拠を持って論証するべきであろう。

今作のポリティカル・コレクトネスは物語上の機能をきちんと有していると同時に、しかし自分のような日本人の男性という(少なくとも日本においては)紛れもないマジョリティたる自分にも通じうる普遍的なドラマになっている。

 

暴力と復讐の果てに行うエリーの「許し」

今作のテーマは、暴力と復讐あるいはその連鎖であるとの誤解を受けやすい。これは物語の構成上、前半のエリー編でその動機と目的が強く打ち出されること、またアビー編のラスト以降もそうした展開があることが要因なのだろう。

しかし、言ってしまえばそれはあくまでジョエルとエリーの物語を描くための前段でしかない。上述してきた複雑な背景を持った登場人物達が織りなすドラマはこれまた復讐の是非を問うためだけの、単純なものではないのだ。

 

暴力と復讐の連鎖、という名のミスリード

冒頭でジョエルが殺害されて以降、エリーは仇であるアビーを殺害するため、ディーナと2人でシアトルへ向かう。

当初はトミーに引き留められても出ていくと言って聞かなかったし、道中でもアビーと彼女の属するWLFへの憎悪を露わにする。

ゲームプレイ時においては、WLFの罠にかけられる形でシアトルでの対立がスタートし、プレイヤーもまたWLF憎しという感情でコントロールを握ることになる。ちなみに、作中ではスカーとのファーストコンタクトも向こうからの奇襲であり、今作はゲームプレイを通じて、こちらから相手への攻撃性を煽る演出が幾度か試みられている。

そんな彼女の姿を見れば、あるいはゲームプレイにおいてWLFの厄介な攻撃を受けていれば、彼女の動機は当然怒りであるという結論に行き着くことだろう。実際、自分も初めてプレイした際には、エリーのそうした言動に同調する部分があった。

しかし、シアトルで日を重ねていくにつれて、プレイヤーとエリーの間の関係には歪みが生じてくることになる。

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劇中で最もそれが顕著になったのが、2日目の病院でノラを一方的に嬲るシーンであろう。それまで自衛のための殺害・殺傷はゲームプレイで行ってきても、感染初期状態で戦闘能力もほとんど失われた相手に有りな立場から暴力を浴びせる行為には、罪悪と嫌悪がつきまとう。しかも相手は敵とはいえ仲間を庇っているだから、尚のことである。

プレイヤーは攻撃ボタンでエリーの振り上げた鉄の棒をノラに叩き込むことになる。だが、正確には「叩き込まさせられる」というべきであろう。エリーにとっても、この局面で行う暴力とはそれ自体が生きる上で必要ないし目的とは言い難い、不必要な暴力なのだから。

結局のところ、直後にエリーはこの暴力について強い動揺を示す。なぜ彼女はここまでしてアビーを追うのか。

表面上はアビーへの憎悪を動機にして行動する彼女の心理を、読み取ることができる節が作中いくつか訪れる。

それがジョエルと過ごした日々の回想である。これらのシーンは単に在りし日のジョエルを思い出して、憧憬に駆られるといったニュアンスで挿入されているわけではないことが、徐々にわかってくる。

1日目では、エリーの誕生日におけるジョエルの粋な計らいが再生される。今作の冒頭にジョエルに教わっていたギターをこの回想の最初にも弾いていたことから、少なくともこの時期まではジョエルとの間になんら支障が生じていないことが窺えるし、恐竜博物館や宇宙展示においては仲睦まじい様子が活写される。

だが、最後の最後に、エリーはファイアフライが組織として瓦解し、その残党が絶望のまま死んでいった痕跡を目撃してしまう。ここからエリーはジョエルに対する疑念を抱え始める。

2日目でもギターの弦という共通のアイテムが登場する。しかし、ジョエルとエリーの間には、トミーの口ぶりからして距離感が生じていることが匂わせられている。この階層におけるトミーの気遣いはある種皮肉な方向に作用し、ジャクソンから抜け出したカップルの亡骸を見たエリーは、かつてソルトレイクから無事に帰ることができてしまった経緯をジョエルに問い詰めるところまで行ってしまう。

そしてとうとう3日目に入る回想では、ジョエルが口にしていたこととファイアフライが残した資料との食い違いに直面し、エリーはジョエルを拒絶する。

助けてくれたはずのジョエルをエリーはなぜ否定するのかは明白で、エリーは自分の命に意味を求めていたからである。ところがジョエルの一方的なエゴイズムによってその可能性はたち消え、エリーは自分が命を捧げていたらより良くなっていたかもしれない世界で生きることしかできなくなる。その上、彼女は自分の命が果たして救われるに値するものだったのかというサバイバーズギルトにも苛まれる。

前作のラストで、エリーは「その日を待っている」と言っていたように、感染に怯えなくてはならないこの世界の不条理と特別な自分自身を天秤にかけ、前者を取ることを望んでいた人物である。ライリー、テス、サムといった感染による犠牲を目にしながらも、自身の無力さに心を痛め、また一方で誰かが自分の前から消えてしまうことに怯える繊細な心を彼女は持っている。前作のジャクソンで、彼女が自分を厄介者としてトミーに押し付けようとするジョエルの前から失踪する一連の出来事において、そうした怯えはいっそう浮き彫りになっている。

エリーは犠牲に捧げることで世界が秩序を取り戻すのであれば、それを選択した。しかしそれがジョエルによって阻まれた。この軋轢は前作のラストで、“The Last of Us”というタイトルに呼応するようにして、予感させるものとして描かれ、幕を閉じていた。

かくして、今作におけるエリーの葛藤とは、実は復讐というよりも、ジョエルの行いによって生かされてしまった自分がジョエルの罪にどう向き合うかという所に核心があるのだ。

 

アビーという許せない存在を主体として描く

表面的にはエリーが行動するためのマクガフィン(作劇上の目的)として、前半では冒頭を除いてほとんど姿を見せないアビーは、エリーとプレイヤーにとっての敵意の対象である。

だがエリー編の終盤、もうプレイヤーもそろそろゲーム自体の終盤かと思ったところで、アビーの視点に物語は遷移する。

これもまた一見すると「敵にも敵の事情がある」というような意図で差し込まれたかのような印象を当初は受ける。もちろん、そうした意図はある程度存在しているのだが、個人的にアビーという人物を描写することで、今作はエリーにとってのジョエルがいかにして許せない行いをしたのかを表現する目的も孕んでいる。

まず、プレイヤーはそれまでWLFに対して行ってきた暴力が反転し、これから浴びせられる暴力として描写されていく様を見ることになる。エリー編では既に殺害されたジョーダン、オーウェン、メルの存在、WLFの内部事情、索敵に用いていた軍用犬といった数々の要素は、対象化していたものが一気に主体化し、とてつもない違和感に襲われる。

個人的には、この体験は小島秀夫がかつて手がけた『メタルギアソリッド2』を彷彿とさせる展開だったように思う。「発売前は秘匿されていた2人目の主人公」の存在もそうだが、プレイヤーが無意識に操作するうちに得ていた体験が、物語の後半で意味あるものとして指摘されるという展開からは、雷電がソリッド・スネークの後を継ぐ存在として計画に組み込まれていたことが発覚する『MGS2』と、近しい感覚があった。

奇遇にも、どちらの作品も2人目の主人公が前作の主人公の再演をしているという構造になっていて、そのことが作品上のテーマに結びついてもいる。『MGS2』では遺伝子では伝えきれない文化的な遺伝子(MEME)を継承する存在としてスネークとは血縁関係を持たない雷電が、『ラストオブアス2』ではジョエルと同じく「許されないこと」をしたアビーが、作品が訴える内容をより克明にし、説得力を付与するのである。

一見すると、アビー編は徹底してエリー編との対比を形作っている。それぞれに三角関係を構成する3人の男女がいて、どちらも父親を殺害されることが発端になっており、一方は復讐の道中にいるがまた一方は復讐を遂げたというプロットの外見は、まず真っ先に思い当たる。それ以外にも、ジャクソンとWLFの双方で犬を擁していたり、ジョエルと医師ジュリーが娘の恋人について話をしたりするような場面も、さりげなくプレイアブルパートに組み込まれている。

また、序盤に昨晩に喧嘩をしたセスとエリーの関係をマリアが修復するよう仲介するやり取りは、アビー編においてはマニーが気まずい関係にあったメルとアビーの仲を取り持つという形で行われる。ここでは両者のリアクションが明確に異なっており、エリーはセスからの詫びの印としてのステーキ入りサンドイッチを素直に受け取らないが、アビーはその場ではメルと和解して困難を切り抜ける。

このシーンを見るに、今作のエリーは相手の考えに合わせるよりも自分の考えを優先する面が強い。トミー救出を優先しようと言ったジェシーを突き放したり、妊娠が発覚したディーナに感情的になってしまう形で、後に顕在化している。前作でもこうした兆候は見られたが、今作ではジョエルとの軋轢を経て、また復讐という目先の目的に囚われていることで、より一層厄介な形で現れているのだと言えよう。

細部に至るまでアビー編とエリー編の対比構造を形作ることで、彼女達の同質性と差異を浮き彫りにすることに成功している。映画や小説といった作品においては、基本的なテクニックではあるが、今作はそれをさりげない形からドラスティックな形に至るまで、全編で描いている点において、観察してみると面白い。

こうした対比の演出は、アビーが紛れもなく人間であり、主体的な存在であるということをプレイヤーにわからせるためのものでもある。決してアビーは血の通わない敵ではなく、むしろレブやヤーラを救おうと奮闘し、一方でオーウェンとメルとの関係に悩む弱さを持った1人の人間であるのだと理解することができるのだ。

 

復讐というものの描き方

復讐は今作の一種のミスリードであり、それ自体は重要なものではないと考える。だからといって、今作は復讐を推奨するように描いているわけでもなかれば、倫理的によろしくないという一般論で解決を図っているわけでもない。

今作では復讐という行為は徹底して意味のないものとして描かれる。それを痛切に体験させるのがアビー編である。

アビーはジョエルを殺害する。ジョエルは前作を遊んだプレイヤーにとって大切な存在である。故に、それは負の側面しかない行為であると思い彼女を憎む。

これが反転し、彼女の父が殺されていたことが発覚すると、その動機が理解できるようになる。しかし、結局ジョエルを殺害してもなお、アビーは手術室の悪夢からは逃れることができない。むしろ、ジョエル殺害時の回想でアビーの視点で聞かされるエリーの叫びは、かつて父親を失った際のアビーそのものであり、それゆえにアビーは苦痛で顔を歪める。

ところで、このシーンにおいて「トミーとエリーも殺害すべきだった」という結果論を唱える者をそれなりに目にする。しかしそれはアビーの性格上、無理だろう。前述したようにエリーは紛れもなくかつての自分であり、また人数的な有利をとった上で無力化した相手を殺害して平然としていられるほど彼女は倫理を踏み外してはいない。これはのちにエリーと対峙した際の「見逃してやったのに」という発言に繋がるが、殺さなかった後ろ向きな理由をあたかも正当なものとしてぶつけるところに、彼女の人間臭い脆さが見える。

この件がもたらしたものは、一体何だったのだろうか。答えは明白で、アビーは何も得ていない。むしろエリーとトミーからの報復と、WLF対セラファイトの争い中で、相次ぐ喪失に見舞われる。あの場にいたアビー以外の仲間は全員最終的に殺害され、アビーもまたジョエルの件で暴力への抵抗感が前面に出たオーウェンに続く形で脱走兵になり、帰るべき場所を失うことになった。

悪夢が消える突破口は、結局のところ復讐ではなく、レブとヤーラを救ったことにあった。2日目で、ヤーラの切断手術の成功を見届けた後に見た夢が、それまでの「手術室で殺されている誰か」のものとは一転して、「父親との再会」に変わっている。

耐え難い苦痛を回避するために復讐をしたところで何も生ない上に報いを受けて多くを失ってしまう。だが、誰かを救い、親になるのであれば、自らの意思で困難を超克し、立ち直ることができるのだ。そうしヒントがこの物語には託されている。そしてそれは、サラを失ったジョエルがエリーの親になることで、麻痺していた人間性を取り戻したことと重なるのである。

 

真のテーマである「許し」と、復讐を止める存在について

復讐の果てに、エリーはアビーを殺さないことを決める。なぜエリーはアビーを「殺さない」と決めるに至ったのだろうか。

実のところ、その辺りのエリーの内情については直接的に明言されていないのだが、プレイヤーが既に体感していることと符号する。それは、エリー編とアビー編から成る『ラスアス2』の異質な構成がもたらしている体験から得たものである。

まず、エリーの視点から殺さない理由を考えてみる。

やはりエリーにとっては劇場地下の戦いでアビーに見逃されたという出来事から、アビーを非道な人間と見なすことが難しくなったであろうことが挙げられる。ノラの一件から元ファイアフライによる復讐であることが確定して以降、向こうにも復讐に足る事情があるというのは分かりきっているのだが、それでも最後には妊婦であるディーナを自分共々見逃したというところから、複雑な思いを抱いたことは想像に難くない。

そして、極め付けは彼女の側にいたレブという子供の存在である。見たところアジア系で、アビーの外見年齢を考えれば実の親子というのも考えにくい。磔にされていた海岸においても、どうしてアビーはレブのことを大事そうに抱えて舟へと向かうのか、その事情はエリーの視点からは見えてこない。しかし「血が繋がらないのに、大切にする」という関係は、どうしても自分とジョエルの関係に重ねざるを得ない。

サンタバーバラ編におけるエリーは、もはやジョエルが殺された時の悪夢を終わらせるために、その解決をアビーに求めている状態にある。そこに来て、痩せほそったアビーが他人の命を考えている姿を目にしてしまえば、一方的に殺すことはエリーの心情からして実に難しい。彼女は本当はアビーを殺害したいわけでもなければ、誰かにとって大切な存在をむやみに奪い去ることができるほど倫理を踏み外してはいない人間なのだから。

更には、サンタバーバラに向かう夜、ジョエルにきつく当たってしまった悔恨を思い出していたことが、このことに説得力をもたらす。結局、エリーにとっての悪夢とは、ジョエルが殺害されたことそのものに限定されているわけではない。根底にあるのは、ジョエルが生前に犯した罪を許し切ることができなかったという心残りである。アビーはその機会を奪った人間として、表面的に仇としてエリーの恨みの対象になったに過ぎないとい見方が、この終盤では顕著になってくる。

しかしこれらのエリーの精神的な葛藤は台詞などで明示されているわけではない。むしろ明示してしまえば、彼女の内面に渦巻く感情が、台詞に限定されかねな危険性がある。『ラストオブアス』というシリーズは、そうした人の内面を重視して、あくまで我々プレイヤーにプレイを通じて同化させるゲームである。

エリーがアビーを殺さないことの選択に至る上で、ゲームは面白い形でプレイヤーにその説得を試みる。

つまり、アビー編というのは、エリーが持ち得る情報とはまた別の情報をプレイヤーに与え、またアビーに同化させるための機会なのである。これによって、アビーを殺さないというアクションに関して、エリーとプレイヤーの間にはその葛藤において差異が生じることになるのだが、いずれにせよ単なる仇として客体化されたアビーを否定するという点において、プレイヤーとエリーは一致する。

アビーの生き様を目撃してきた我々にはもうアビーはジョエルを冷徹に殺害しただけの敵ではないし、エリーの目にもジョエルと重なりうる存在として映っている。この複雑な感情を体感させるために、アビーという主人公の物語を体験させ、人を外部化・客体化することで生じてしまう憎しみの感情を揺るがした。それはゲームというメディアにしかなし得ない、試みである。

アビーを殺害しかけた時、彼女の頭を過ぎるのは、それまでの悪夢とは違った平穏なジョエルの姿である。復讐を食い止める存在としてアビーにはオーウェンが、平穏な暮らしを得たエリーにはディーナがいたが、いずれも相手の静止を振り切った結果、その報いとして喪失することになった。しかし、アビーがその後にレブの存在によって思い留まったように、エリーにとっては思い出の中のジョエルがその役目を果たしたのだと言える。

これはアビーがヤーラを救った際に見えた父との再会にも似た景色であるが、エリーの場合はこの時にやっとジョエルの行いを許すことができたという証にもなっている。「もしも神様がもう一度チャンスをくれたとしても俺はきっと同じことをする」というジョエルの堅い意思を聞いたエリーは、たとえそれが人道に反したエゴであったとしても「許そうとする」という形で報いろうとした。ジョエルの死亡によりとうとう果たされることがなかったそれは、最後の最後にもう1人のジョエルであるアビーを許すことで果たされ、結果的にエリーの心の決壊をも防ぐことになったのである。

 

ギターを捨てたエリーが向かう先

ラストシーンにおいても抜けの殻と化した家に訪れたエリーは、独りどこかへと消えていく。

戦いの中で指を失い、ジョエルから貰い受けたギターを捨て置くこの結末に対して本作をバッドエンド的であるとする見方もあるが、上述してきたエリーとジョエルのドラマを観察すれば決してそうではなく、救いもまた描かれているのだと思える。

今作では光を追い求める蛾が至るところで登場する。冒頭ではのっけから蛾のマークが施されたギターをジョエルが拭いているところから始まるし、ロード画面、エリーの日記、エリーのタトゥーにも蛾は出てくる。これは光を追い求めるというファイアフライのスローガンに呼応した意匠なのだと思われる。今作ではアビーとエリーは、光を追い求めるようにして復讐に向かっていったが、それは彼女達にとっての光たりえない。

指を失ったというのは痛ましい傷に見えるかもしれないが、ギターを媒介にしたエリーとジョエルの関係からその文脈を捉えてみると、これはエリーがジョエルへの執着から解放されたことを意味している。エリーにとってのギターとはジョエルから教わったものであり、シアトルにおいても彼を思い出すためのアイテムとして出てくる。しかし、アビーを、ジョエルを許した今となっては、いつまでもその存在に囚われたままではいられない。

指を失ったことでうまく弾けなくなったというのはあくまでも表象であって、エリーがジョエルからの形見を置き去りにして、1人で旅立てるようになったことを示す成長の傷跡である。痛ましいが、しかし確実に何かが変化したことを示すために、彼女は薬指と小指を失う。今作のテリングが誠実に感じられるのは、そうした変化を能天気に良いこととしては描かず、あくまで痛みや喪失感を伴うものとして扱っていることだろう。

そうした悲痛な表象を取り上げて、バッドエンドであると不満を言うこともできてしまうのだが、前作『ラストオブアス』でも今作『ラストオブアス2』でも、人の内面に白黒つけるようなことはしない。エリーの内面でいかなる変化が起こったのか。それは前作でのジョエルの行いが、果たして良いことだったのかを問いかける微妙な幕引きと同じく、見る側に多彩な解釈と思考をもたらしている。

ラストカットでは、捨てられたギターとどこかへ旅立つエリーが重なり合おうとする構図になっている。エリーは今度こそ蛾のように、光を追い求めて生きていくのではないか。ジョエルから救われた少女としてではなく、自らの生を。

アビーがエリーの先をいく人物として描かれているように、まさにエリーは復讐によって多くを失ったが、やはりアビーと同様にエリーはレブのような大切な存在を得るのかもしれない。気持ちがはやるが『ラストオブアス パート3』があるとするなら、そんな景色を望む。

 

操作することの意味を問い質す、ゲーム史に残る傑作

自分は幼少の頃から、マリオやリンクといったゲームのキャラクターを操作して、無邪気に遊んできた。それから同社の『アンチャーテッド』シリーズを遊び、「プレイする映画」なるものの面白さの虜になり、『ラストオブアス』でも相変わらずストーリーとゲームが一体になった体験の面白さを味わってきた。

『ラストオブアス2』はそうしたゲームとは一線を画した作りになっている。相容れぬ敵の視点を見せるという試みは、確かにこれまでの映画や小説、漫画といった作品でもなされてきた。しかし、本当の意味で主体化することができた作品はなかったのではないか、と今は思う。い「敵にも事情がある」といったエクスキュースを入れてきた多くの作品が、結局は主人公側を起点にしたままであったり、あるいはメディアの性質上オーディエンスと作品内の登場人物の一体性が十分ではなかったりすることで、真の意味で相対するものへの同化を遂げていたとは言い難いものがあった。

ところが、今作では「仇敵を操作させる」ことによって、プレイヤーと登場人物の同化・異化を図る。エリー編ではあれだけ憎い存在だったアビーが、サバイバルアクションを行ううちに、そうとは言い切れなくなっていく。長時間のゲームプレイに耐えられるよう、細かな部分では性能やアクションの差別化が図られつつも、同じ感覚で異なる人物を操作することで、生い立ちや境遇は異なれども、同じ人間であると思わざるを得なくなるのである。

操作することを通して、対立した人間であっても通じうるものがある。この体験はゲームでしかなし得ないものだったと断言できる。

今作は前述したように賛否両論分かれているが、その大半はこの部分に原因があると思われる。それはある意味で当然のことだろう。対象化することで攻撃を正当化できていた敵が敵ではなくなってしまう感覚は、現実にもなかなか向き合えるものではない。故に人は暴力や争いに時として平然と加担してしまう。今やネット上ではそうした攻撃と接する機会は多く、ネットを離れてもそうした論調が増長させた暴力を目にすることはある。

今作のポリティカル・コレクトネスやアビーというキャラクターをめぐる誹謗中傷は、対象を主体化してみるといった思考を放棄してしまっていることに起因しているようにも思えてくる。皮肉にもそれは、今作の劇中でアビーやエリーが復讐の名目で行っていたことと重なる。感情的に反発するのでは、今作が作中で描いたことやプレイを通じて訴えたテーマの内側に取り込まれてゆくことになるだろう。むしろ、今作は賛否両論分かれることで、他者を他者化してしまう安易さと、それでも主体化して見せることの難しさを証明したとも言える。

もはやこのゲームがもたらした変革は、グラフィックの美麗さだとか、ゲームシステムの面白さだとか、キャラクターの人気ぶりといったものからは逸脱し、もはやゲームというメディアの枠組みをも揺るがす偉業を達成している。今作は発売直後は激しい反発があったものの、時が経つにつれて評価する声が増えてきているのも、そうした革新性を冷静に見直すことができるようになったことが一因にあるのかもしれない。

近年では『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』の傑作ぶりに驚かされたが、『ラストオブアス2』もまた異なる方向で今までにない体験をもたらした。10年、20年後にはもちろんゲームの技術は進化していき、今作の個々の要素は古びていくのかもしれないが、操作することの捉え直しを試みたパイオニアとして、今作はゲーム史に名を刻むはずだ。

痛みを伴う物語ではあったが、痛みなくして新たな境地には至れない。そのことを強く実感する作品であった。

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