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こんにちは、レッドデッドリデンプション2をクリアして放心状態になったワタリ(@wataridley)です。
今回はディズニーが送る長編アニメーション『シュガー・ラッシュ: オンライン(原題: Ralph Breaks the Internet)』をレビューしていきます。
前作『シュガー・ラッシュ(原題: Wreck-It Ralph)』から6年の歳月を経て制作された今作。途中『ズートピア』で監督を務めたリッチ・ムーアとその脚本を書いていたフィル・ジョンストンが指揮を取ったとだけあって、かつてのディズニー作品への皮肉やインターネットという今めかしい舞台装置を扱った意欲作になっていました。
劇場では今作の予告編がかかるたびに、ディズニープリンセスが大集合する映像に観客が沸き立っている景色を見てきました。
そんな話題性も公開前から確保しているとあって、ヴァネロペとラルフが繰り広げる物語にいっそうの関心を引かれていました。
映画を観た今、この映画はたしかにディズニーの自省的な一面を取り上げつつも、これからの多様な価値観を認めんとする前向きな作品になっていると言えます。ラルフとヴァネロペの物語は、旧作ならばこうはならなかっただろうという新しさを含んでいましたし、現代人の腹に落ちるものでもありました。インターネットの戯画化も持ち前の表現力で頷き笑えるものばかりです。
以下、ネタバレを交えて詳細な感想を記していきますので、未見の方はご注意ください。
※今回の記事を書く前に、「カゲヒナタの映画レビュー」の管理人で映画ライターのヒナタカさんと映画の感想を語り合いました。よろしければこちらも合わせてどうぞ。13分45秒ごろからネタバレあり。
73/100
目次
戯画化されたインターネットの世界
ある日、ヴァネロペの勤務先たるレースゲーム「シュガー・ラッシュ」のアーケード筐体に備え付けられたハンドルが故障したことから、ラルフとヴァネロペは代品を求めてインターネットの世界へ飛び出す。それが今作の導入である。
冒険の舞台となるインターネットの世界は、数々の世界を創作してきたディズニーの熟達したメソッドや豊富な人材あってか、非常に壮大な景観になっていた。
IPアドレスに紐づけられたアバターは、その主とそっくりな外見。それがLANケーブルを目まぐるしい速度で通ってインターネットの空間に到達していく過程が、既に我々の日常に潜む仕掛けを楽しげに可視化してくれている。
序盤のヴァネロペとラルフの日常と彼らに訪れた危機をテンポよく紹介し終えた先、やっとたどり着いたインターネットの世界も現実と擦り合わせつつ、創意性に富んでいた。
数々のネットユーザーが空中を飛び交い、通信速度によってそれぞれの速さには差異がある。摩天楼に付いている看板には「楽天」「YouTube」「Snapchat」「天猫」など、国を問わず有名なネットワーキングサービスの名前が書かれている。「Twitter」ではtweet(=鳥のさえずり)という名前の如くかわいい小鳥たちが木々に集まっている様子が映し出されているさりげない再現にも思わず笑みがこぼれる。インターネット上に巨大なインフラを提供している「Google」は、現実と同じように巨大企業然と聳え立っている景色も面白い。
ラルフとヴァネロペが道中出会うインターネットあるあるも、見るたびにネットの裏側はこうなっているかもしれないと思わせる魅力があった。検索ワードの予測機能を擬人化したお節介焼きのノウズモア、オークション型サイトで再現されるオークション、新宿歌舞伎町のキャッチセールスのように鬱陶しいポップアップ広告、忙しなくファッションチェンジや気変わりするアルゴリズムのイエスなど、ビジュアルで披露される駄洒落がいちいちこちらの想像を刺激してくる。
自分たちが無意識に利用してきた便利な機能はこんなにもがんばっていたのかと思わせる裏方職業のドキュメンタリー映像を、かわいらしいアニメーションで表現していく遊び心には満足感があった。
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ラルフとヴァネロペに見る、避けられない変化の中で鍵となる他者信頼
前作では悪役としての役目を受け入れ、ヴァネロペと並存する道を選んだラルフ。だが、今作のラルフはヴァネロペの居場所を縛る絆になってしまっている。
ラルフは昼はレトロゲーム「Fix-It Felix」で悪役を演じ、夜はヴァネロペと遊んで過ごす。6年間変わらぬそんな日常に対して、何ら疑問も持つことはない。日常がずっと続けばいいと思う彼の姿は少し老け込んでいて保守的とも言えるが、ラルフのこの性格は誰にでも重なる部分があるはずだ。
新しいことを始めることは、日常の変化を意味している。いつも通り出来ていたことが出来なくなってしまう恐怖感がそこにはある。逆に想像を超えた出会いやイベントが起こる機会もあるのだが、未知のことに対する不安がその可能性を阻んでしまう。
そうなるのも無理もないだろう。予想以上のことも予想以下のことも起こらない繰り返しは、楽なのだ。多大な刺激がない代わりに精神をすり減らす必要もないのだから。
だが、ヴァネロペはそんなラルフの考え方とは相反して外向きだ。今いるレースゲームは攻略し尽くしてしまい、新しい何かを求めている。Wi-Fiが通じた時の興味津々な表情や、ラルフに作ってもらったコースを走る時の心底楽しげな様子からもそれは明白である。
2人は考え方が全く異なる。にも関わらず、ヴァネロペはその摩擦によって生じた不満の行き場をどこかへ放出することもかなわなかった。インターネットと出会うまでは。
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2人の違いはインターネットの世界の旅を通じて顕在化していく。
ハンドルを求めて「スローターレース」に入り込んだヴァネロぺは、そこで刺激的なレースを経験し、憧れの存在シャンクと出会う。ラルフに「お菓子のカートに乗っている」ことをシャンクに言われてしまった時に顔を隠す仕草がとても印象に残る。彼女にとって自分の居場所からの心はすでにこちら側に移っていたのだ。
シャンクから教わった伝手を頼りにしようとするヴァネロペと、シャンク達に良い印象を受けなかったラルフは、この時点で軽い意見衝突を起こす。結果的に、支払い期限を巡ってラルフが折れたものの、その後も2人はシャンクを巡って異なる印象を表明している。
ラルフにとってみれば、ヴァネロペはお菓子で出来たカートを運転する女の子であり、スローターレースは今まで目にしたことのない危険なゲームだ。しかし、ヴァネロペはそんなレースに心を揺さぶられ、そこで活躍するシャンクに惹かれてしまう。この両者の違いが、やがてラルフを苦しめる。
ラルフはヴァネロペに対して一緒にいるのが当たり前であるし、彼女の親友であることに誇りを持ってもいる。彼女がゲームレスになってしまった際にも、自分の親友であることで十分じゃないかと言っていた。ヴァネロペと靴と靴下の関係にあるという思いは、一見すると親密なのかもしれない。
ラルフがヴァネロペのために「シュガー・ラッシュ」で道を作り、ポップ広告の拠点に「安心安全な」ディズニーのファンサイトを指定する行いも、ヴァネロペを慮ってのものだろう。
しかしながら、これらのラルフの言動の底にあるのはヴァネロペへの信頼ではなく不信である。
シュガー・ラッシュに別のコースを作るラルフは、さながら子供にレールを敷く親の姿に似通う。自分が危険だと判断した「スローターレース」から遠ざけるかのようにディズニーのファンサイトへ誘導した行いも同じだ。
ここには自分が良かれと思ったものこそ、当人にとって良いものであるという前提がある。逆に自分が良くないと判断したものは、当人にとっても毒だ。つまり、本人の意向や希望よりも、自分の判断こそが何よりもの物差しなのだ。
ヴァネロペの「スローターレース」へ傾いている心境を知ったラルフが彼女の門出を妨害しようとウイルスを散布した背景には、親友への不信があった。
これは一種ストーカー的な思考でもある。相手の幸福ではなく自分の不安や孤独を紛らわすために、事を起こしてしまう。この幼稚な行動をラルフという巨体で成人したキャラクターにとらせるのが実に生々しいと思えた。
そして変わらぬ友情に固執するあまり、その邪な心はウイルスを媒介に増幅し、インターネットの世界に危険をもたらしてしまう。
彼女の気持ちを一切伺う事なく襲ってくるウイルス達は、とても恐ろしい。他人を顧みることのない欲動は、こんな怪物然としているのだと告げられているようでもあった。
怪物と戦っている最中にラルフは「お前は彼女の友達じゃない。彼女の友達は俺だ」と叫ぶ一幕があったが、この時の攻撃は致命的なダメージを与えるには及ばなかった。なぜならこの時のラルフの頭にはあくまで「自分にとっての彼女」しかなかったからだ。
しかし、初めて友達のことを慮った時の結果は違った。ラルフは追い詰められてからやっと自分を差し出して、ヴァネロペの安全を優先する。「ヴァネロペを想う気持ち」、つまり彼女への信頼がラルフの中に芽生えたのだ。そうして怪物は満足げな表情で消えていった。このことから見ると、ラルフの中にある不安定な不具合とは、自己中心で捉えた親友との関係だったと考えられる。
本当に相手のことを尊敬し、信頼しているのならば、相手が望む道を肯定することこそ信頼関係の第一歩である。子供の趣味や将来の進路について口を出す親というしばしば見かける話においても、仮にそれが心配からくるものであったとしても、子供の望みを阻んでいる事実に変わりはない。グロテスクなもの、暴力的なもの、エロティックなものに興味や関心を傾けていたとしても、それを頭ごなしに否定される辛さは自分のことに置き換えればよくわかるはずだ。逆に、相手が自分の興味関心に真摯に耳を傾けてくれたのなら、その相手を無下に扱おうとは思わない。それが人間の心理というものである。
ヴァネロペのスローターレースへの転職を後押ししたラルフは、辛い自分の気持ちも向き合いながらも、相手の心赴く方向をリスペクトしたのだ。だから、ヴァネロペにとってもラルフとの別れは親友との別れとして染み入ったのだろう。たどり着いた結末からわかるように、彼らは物理的に離れ離れになっていながらも、その信頼関係によって交流が途絶えることはないようだった。
前作で披露していた大きな手と小さな手の握手は、今作のラストで拳合わせとして反復される。前と違うのは2人が現実に触れ合っているわけではないということだ。だが、ヴァーチャルであったとしても2人はたしかにインターネットを仲立ちに繋がりあっているという対比になっている。
シャンクが告げていたように友情は変わってしまうものだ。友情だけではなく、ありとあらゆる人間関係にもあてはまる。小津安二郎の『東京物語』にも通じるテーマではあるが、現代では関係が変わってしまうことが必ずしも疎遠になるとはならない。
インターネットがあれば、世界のどこにいても通じ合える可能性がある。諸行無常たる人間関係の在り方となおも発展し続けるテクノロジーとの融合を描いたラストは、非常に秀逸だ。
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脱「ディズニープリンセスらしさ」
従来のディズニープリンセスは大きくて強い男性に導きかれ、その人と結ばれることを持って「ハッピーエンド」となってきた。これは社会学の分野においてもしばしば指摘されるディズニーの傾向である。
たしかに1人の女性が幸せを掴むという物語には幸福感がある。しかし、問題になってくるのは、ディズニーが長年そうした女性像ばかりを画一的に描きすぎてきたことだ。
シンデレラ、白雪姫、オーロラ姫などの結末にはいずれも男性の存在が強くあった。シンデレラは王子様に見初められなければ、あのままトレメイン夫人の元で使い走りにされていただろうし、白雪姫とオーロラ姫も王子様が来なければ永遠に床に伏したままだったはずだ。
もちろん、素敵な男性と出会うことこそ幸せという価値観もあっていい。だが、この背の高い強い男性の登場を除いて幸福になった例はあまりに少なく、ディズニーはこれまでその画一的な価値観を支えていた側面があるのではないだろうか。
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一方でヴァネロペはどうだろう。
まず、ヴァネロペを導くのはシャンクという女性である。彼女は仲間たちをとりまとめる頼れるリーダーであり、卓越したドライビングテクニックでどんな障害物もものともしない。
そんな彼女がいる世界は、およそ教育的とは言えない。スローターレースは危険なトラップが配置され、窃盗や破壊といった暴力的な遊びが好まれ、道端にはジャンクが転がっているような、グラフィティアートまみれのわい雑な街並みである。ここにかつてのディズニープリンセスとそのファンが憧れてきたような煌びやかな景色は存在しない。
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ドリンクカップから溢れた水を見てスローターレースへの憧憬を歌うヴァネロペは、印象的なミュージカルを繰り広げる。ゴミ、猛獣、スモッグ、タトゥー、猛スピードでかっ飛ばすタフなレースなどに憧れ、自分の居場所はここなんだと歌う彼女は、極端なまでに旧来のディズニープリンセスとはかけ離れている。彼女がいたい場所は、カラフルな花火ではなく危なっかしい爆炎が昇る世界なのだ。
ヴァネロペの声を担当するSarah Silvermanのビビッドで毒のある声質もこれまでの滑らかな声色のプリンセスとは一線を画している。ラルフに対して気さくで言いたいこともやりたいこともはっきり言うし、ちょっとした貶し言葉も口にする従来のプリンセスらしからぬキャラクターにうってつけのキャスティングだ。
近年では『アナと雪の女王』『モアナと伝説の海』などにおいても、新たなプリンセス像が見られるようになっていた。『アナと雪の女王』はエルサとアナの2人姉妹が、和解することによってその幸せを手にしていた。『モアナとで伝説の海』では、モアナは自ら大海原に飛び出し、寧ろ男性のマウイを外の世界へ連れ出していた。
ヴァネロペはそこから更に脱皮し、誰もが何を望んでも構わないという幸せ像を提示したという点において、斬新なディズニープリンセスなのである。
ラルフがディズニーのファンサイトをを安全な場所としながらも、いざヴァネロペが出会ったプリンセスたちがこのような傾向性を語り、犯罪沙汰に巻き込まれてもいるといったシニカルな台詞をお披露目する様には、ディズニーによる自省の姿勢がありありと見えていた。
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今作の欠点について
今作はディズニーがかつての画一的な作風に対する皮肉を表明し、インターネットという時代を直に反映した舞台装置の上で、旧ディズニー像からの脱脚を描いたという点で非常に意義深い作品ではある。
しかし、いかんせんテーマを巧みに訴えかけていた『スートピア』と比較すると、やや話の筋が弱い気がしたのも事実だ。
以下に自分が感じた不満を書いていく。
インターネットである必要性
今作はインターネットを舞台にしているが、テーマを語る上で必ずしもその必要性はないように感じた。
今作におけるインターネットとは、最終的にはヴァネロペとラルフを取り持つテクノロジーに集約されている。彼らは変化を避けられないが、異なる考えや異なる場所に隔てられた人でさえ、ネットを仲介役に繋がれる。
しかし、これらに寄与するための描写が作中十分あったかと問われると怪しい。
今作のインターネット世界の魅力はすでに述べた通りだが、作中の肝心のドラマはほとんどヴァネロペとラルフの1対1のドラマで完結してしまっている。インターネットにおける見ず知らずの人との出会いや異文化との交流は十分ではない。
スパムリーやシャンクたちとの出会いはあったが、それらはプログラム上の存在だ。登場したインターネットユーザーも全員モブである。さらに言うとスパムリーはシャンクに出会わせるための中継役でしかなく、また最終盤にはラルフとウイルスを引き合わせるための役回りでしかない。シャンクは、せっかくガル・ガドットが声を吹き込み、魅力的な造形をしているにもかかわらず、ヴァネロペ別世界へ誘う表面的なナビゲーターである。仲間たちとの友情や彼女の背景について、全く手をつけられていないのが惜しいところだ。
それらとの出逢いを済ませたのちに展開するバズチューブのお金稼ぎも言ってしまえば、くどい回り道だ。ラルフが披露する一発芸的な動画の数々には多少の面白さはあっても、それが後に繋がることはなく、完全にヴァネロペと別行動をとるための理由になってしまっている。このシークエンスではネットの闇である「誹謗中傷」についても触れており、ラルフの傷心に自分も苦々しい想いをしたものの、やはりのちの展開において有効になったとは言い難い。
インターネットを視覚化した創意性は面白い反面、それらがディズニーによる豪華な「インターネットあるある」に留まってしまっており、物語上の必然性に疑問を呈さざるを得ないのだ。
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薄められたシュガー・ラッシュ要素
前作ではメインキャラクターだったフェリックスやカールホーン軍曹は、物語の序盤と最終盤にしか登場しない。このことが象徴するように今作の『シュガー・ラッシュ』要素は、ラルフとヴァネロペを除いては、非常に薄い。
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いちおうインターネットという電子上世界で展開される物語であるため、ゲームキャラクターの彼らと親和性の高い話にはなっている。
だが、ラルフの親友であるフェリックスが主人公を務める「Fix-It Felix」やヴァネロペのいた「シュガー・ラッシュ」といった魅力的な作中ゲームが主張していた一貫性ある世界は鳴りを潜めてしまっている。その他のゲームキャラクターのゲスト出演なども更に縮小し、ゲームをモチーフとしたアニメーションらしい面白みは薄れたと言わざるを得ない。
代わりに登場したスローターレースも部分的かつ最低限の説明で済まされてしまっており、前作の舞台「シュガー・ラッシュ」ほどの書き込みも足りないように感じられた。
フェリックスとカールホーンも、ゲームが故障したことであぶれたレーサーを引き取るという本筋とはあまりに関係のない役目を負わされてしまっており、インターネットの世界に進出するのでもない。
独自の要素は薄れ、引き継ぎ要素も極小という点で、今作は「シュガー・ラッシュ」の続編の旨味を活かしきれていない部分があったように思う。
中途半端な落としどころ
今作はラルフとヴァネロペがどうなってしまうのか?という点を主軸に物語は展開していた。そこについては新鮮な決着が描かれていたし、型破りなヴァネロペの望みも多様な価値観を認める決意表明となっていた。
だが2人の関係にフォーカスした結果、並存する他の物語は疎かになっている。
例として、そもそも話の発端となったハンドル探しは、結局ヴァネロペが「スローターレース」へ行くことによって放棄されてしまっている。正確にはフェリックスたちが品行方正に育てたレーサーたちによってかつての姿を取り戻してはいる。しかし、いかんせんこの育児風景は上述した通り全く本筋とは無関係だったために、大したカタルシスも感じられない。
前作でヴァネロペが正規のキャラクターに返り咲く場所として描かれていたにも関わらず、それを放棄してしまっていいのかという問題もある。他の領地に踏み入って混乱をもたらす「ターボ」が悪とし、本来いるべき場所にいることの重要性を説いた前作とはまるで逆さになってしまっているのだ。
居場所がその時々によって変わっていくというのは現実に即してはいるのだが、ヴァネロペが可愛らしい雰囲気の「シュガー・ラッシュ」から全く作風の異なる「スローターレース」へ移動する行為と「ターボ」との境界線が不鮮明なために、非常に都合のいい振る舞いに見えてしまう。
「スローターレース」の製作者からすれば、全く身に覚えのないキャラクターがいきなりゲームに現れたことになる。これは現実的に考えれば意図しない仕様、つまりバグでありフィックスされても文句が言えない。現実との辻褄が合わないのである。
『トイ・ストーリー』シリーズでは、オモチャ達が人のいないところで動き回っているという設定が徹底されていた。だから、本当にそういう世界があるのかもしれないと思わせるだけの魅力に満ちていた。
それと比較すると、今作のヴァネロペの顛末は前作との矛盾があるばかりか、ファンタジーの嘘が徹底されていない。
加えてシャンクやスパムリーなどの他のキャラクターの描写も書き割りに過ぎず、主体性が見えてこないのが惜しいところだ。ウイルスを売っていた闇商人も、特に罰せられたといったオチをつけられていない。
ラルフとヴァネロペの密な描写とは対照的に、それ以外のドラマやキャラクターが薄い。インターネットという沢山の人や物の交差路を舞台にしている以上、なおさら壮大さを感じさせる群像描写が欲しかったと思う。
まとめ: ディズニーの新たな時代の幕開け
ラルフとヴァネロペは最終的に離れていながらも、関係は変わらず維持している。
ヴァネロペは危険で汚らしく荒々しい世界で活躍する道を選んだ。その道も友達から肯定される。
これは昔ではなかなかありえなかっただろう。
ラルフとヴァネロペが別々の世界で暮らすことは、インターネット出現以前では、疎遠にならざるを得なかったはずだ。だが、ネットによって生きている限りお互いの存在を身近に感じられる。外界の情報に触れる機会だって増え、それこそヴァネロペのように別のフィールドへ移ることもたやすくなった。
「女性の幸せは素敵な男性との結婚」という価値観はインターネットの普及によって一昔前のモノと化し、各々の人生における正答は多様化した。働くことに喜びを見出すことはもちろん、社会的にマイノリティーとされているコミュニティーに属することだって各々の自由である。
現代とこれからの時代で実現できる多様性を訴えるポジティヴなメッセージを高品質なアニメーションに乗せてくれた『シュガー・ラッシュ: オンライン』は、今後のディズニーアニメーションにおいて転換点として語られるだろう。
ディズニーによる世界をよりよくするためのものづくりに期待して、感想を締めることにしよう。