語り継がれる文化的遺伝子(MEME)『ちはやふる -結び-』レビュー【ネタバレ】

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こんにちは、最近ハマれる新作ゲームを探しているワタリ(@watari_ww)です。

今回の感想は、競技かるたを題材にした人気漫画の実写化映画の3部作完結編にあたる「ちはやふる -結び-」です。

この実写「ちはやふる」は2年前に「上の句/下の句」の前後篇が公開され、好評につき完結編の制作が決まったという経緯を辿っています。

最初は、日テレがかつて企画した実写版「デスノート」前後篇や昨年公開された「3月のライオン」前後篇のような定期的に実施しているおきまりのビジネスモデルのひとつでした。

ところが蓋を開けてみると、毎年消費産物として消えていくばかりの実写邦画界の中では、かなりの良作だったと記憶しています

作り手の誠実さを感じる原作や競技尊重の内容、高校生を演じる瑞々しく魅力的なキャスト、「静と動」を駆使した迫力とメリハリのある画で映される競技かるた描写など、どれを挙げても予想していたより上を行っていました。

なので今作にも自然と期待してしまうわけで、その期待値を超えられるかどうかという高めのハードルがあったわけです。

単刀直入に今作を評価すると、脚本、演出、キャスト、映像表現などがどれも高水準な作品になっていると思いました。別れを惜しみたい気持ちがある一方で、制作者が足がかり2年で作った完結作を清々しい気分で受け取りました。

以下では、ネタバレを交えて今作の感想を述べていくこととします


79/100

ワタリ
一言あらすじ「過去を今、今を未来へと繋いでいく物語」

太一の物語として

ちはやふるはその名が示すように、主人公の少女 綾瀬千早の物語ではないかと思いますが、今作で最も注目したキャラクターは真島太一です。

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千早がかるたの読み手の母音を機敏に聞き取り、目にも留まらぬ速さで札を弾く天才肌として描かれている側で、太一は目立った才能があるというわけではなく、かるたとの関わり方も真っ直ぐではない迷いがあるキャラクターになっています

今作は千早と太一以外にも、永世名人を祖父に持つかるたが好きな新、クールで圧倒的な実力を持ちながらマスコットキャラに並々ならぬ愛情を注ぐ詩暢、瑞沢かるた部の個性豊かな肉まん君、机君、かなちゃんなどの面々が出てきて賑やかに物語を紡いでいきます。

しかし、そんな中でも傍観者である自分に近い目線でものを見ているのが、太一。彼は、かるたとの関わり合いには千早の存在が常にあるように、決して純粋なかるた好きではないようです。かるただけではなく、学生の本分として課される勉強も怠らず、部長として、優等生としてのプレッシャーを感じている。弱みを隠しきれない彼に共感し、その成長を見届けるための2時間だったのではないかと思うくらい感情移入してしまいました

スポ根ものの創作物でキャラが特定のスポーツに励む動機というと、純粋に楽しいからだとか、自分を高めるためだとか、いかにも立派なものばかりです。「競技にひたむきなキャラクター」というと千早はもちろんのこと、「ヒカルの碁」の塔矢アキラだとか、「スラムダンク」の赤木剛憲だとか、そういったキャタクターが代表的だと思います。

別に、それを否定するわけではありません。ただ、世の中に生きている人たちがみんなそうした立派な動機や精神から、何かに励んでいるのだろうか?と思ってしまうんですよね

太一にとってのかるた部は、千早の側にいるための口実である事は「上の句」でも今回でも少なからず感じ取れます。新からかるた部創設のアドバイスを聞かれたLINEでは、千早の勢いに乗っただけで自分は何もしていないと告げつつ、千早と新の関係を聞こうとする。菫から新と千早の仲を誤解し、勉学も部活にも悪影響してしまう。学生時代に失恋して学校を休みまくって、当然部活も行かなくなった自分には痛いほど共感できるエピソードです…。だから、太一を他人事には思えないし、きっと自分以外にも、人間らしい弱さを持つ太一を心配してしまう人は多くいるでしょう。

菫から新と千早の話を聞かされるシーンでは、足取りが重たくなり、画面に顔が映りません。この場面では、敢えて顔を見せないことで、太一に生じた不安が観客の想像に委ねられるのですが、想像であるからこそより深刻に捉えてしまい、胸が痛くなります。菫よりも後から歩いてきていた太一が、話を聞くあたりから前を歩き、最後には「関係ない」と離れていく位置関係からも、菫を置いて薄暗い感情に入っていくようなニュアンスが取れます。

机くんが、常に2番手に甘んじながらも太一の努力を認めていたからこそ、自分が1位になってしまった時の衝撃は観客にも伝わってきました。折れるシャープペンシルは心を指しているでしょうし、消灯に追いやられるようにして奥の出口に向かう後ろ姿も、息苦しい映像です。ここまで一貫して太一の心情や表情を大写しにせず、見る側に内面を掴ませる巧みな演出には感心させられました

心にのしかかった物が肥大化した時、かるた部から距離を置いてしまい、これが今作の物語において大きな柱を成しています。

太一をかるた部から離れてしまう遠因を作ってしまった菫が、後に反省し、かなちゃんから優しく諭される場面において紹介される「恋すてふ」と「しのぶれど」の和歌がこの物語の比喩になっているのが面白かったです。

恋すてふ(ちょう) わが名はまだき 立ちにけり
人知れずこそ 思ひそめしか
(壬生忠見)
しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は
ものや思ふと 人の問ふまで
(平兼盛)

もちろんこの二つの和歌は、太一と新の恋心を表しているわけです。

秘めていた恋を露わにし、噂になった新が「恋すてふ」。

隠せば隠すほどに感情に表れしまう太一が「しのぶれど」。

これらの和歌が運命戦において、勝負の分かれ目になるというシチュエーションも実に巧みです。

運命戦と言えば、太一は「上の句」において自分の札が詠まれたことがないジンクスを憂いていました。偶然であるにせよ、太一にとっての運命戦は「自分がかるたに寵愛されていない」とすら思えるぐらいのネガティヴな賭け事でしかありませんでした。

しかし、原田先生曰く「運命戦は運命じゃない」。この言葉が意味するところは、作中明確に説明されていませんが、これを聞いた太一が取ったのは、「恋すてふ」を送るというセオリーに反した行動です。新との戦いで彼が優先したのは、和歌に込められた意味でした。「しのぶれど」はクイーンの若宮詩暢の得意札(本人はすべてが得意札と豪語)でもありますが、ここでは太一にとっての自身であり、「恋すてふ」よりも取りたいという気持ちが強かったのです。

そして、神様は「しのぶれど」に微笑み、瑞沢の勝利となりました。運命とは自分ではどうしようもないことだけれど、運命戦においては自分の気概こそが大きく影響してくるのだから、自分の選びたいものを選んだ太一がなおかつ勝利を手にしたのは、とてもカタルシスに満ち溢れていたように思います

 

太一との関係から成長を遂げる周防

永世名人の冠を得て、かるたからの引退を一旦は口にしていた周防が今作のテーマを最も体現したキャラクターに映りました。

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圧倒的な強さを持ちながら、千早や新などの「かるた好き」とは別質の感情をかるたに向ける周防は、明らかに「上の句/下の句」には出てこなかったタイプの人間です。おまけに、年齢的にも大学7年生の20代半ばという「ちはやふる」のキャラクターの中では高齢です。

彼は映画の序盤に國村隼演じる原田先生に圧勝し、目標を達成するやいなやあっさりと引退すると宣言してしまいます。のっけから拍子抜けさせられましたが、「これ以上強くなってもどうしようもない」とぼそぼそ言う様子に意味ありげな悲しみを感じました。後に明らかになるように、彼は視力が衰えてきており、視覚以外に頼らざるを得ない事情がありました。

頻繁にお菓子を口にするのは、もしかしたら薄れてしまった視覚とは違い、きちんと感じることのできる味覚への拘りだったのかもしれません。

周防は視力に問題を抱えているから、聴力が活きる競技かるたであの地位にまで登り詰めたようです。太一になぜ視力が弱まってもかるたを選んだのか?と問われれば、「それしかなかったから」と答えるほかない。千早や新がかるたの魅力に真っ直ぐである一方で、周防は自分に残された武器を使えるフィールドとしてかるたを選んでいたわけです。

この「条件さえ変われば、かるた以外でも構わない」という姿勢は太一と重なってきます。太一も「千早の側にいられれば」という動機からかるたをやっていた人間であり、だからこそその根底が揺らいだ時は迷ってしまいます。

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映画の始まりにおける周防は、名人に登りつめ、「やれることはやった」気になっていたため、いとも簡単にかるたへの執着を手放してしまえるわけです。彼の胸中を占めていたのは、怠惰や諦念といっても過言ではないでしょう。そのまま呆気なく引退してしまえば、後に残るものは空虚なものだったのではないか、とも思います。

しかし、太一と出会ったことで、その感情が変わっていきます彼はこの映画を通して、自分のかるた人生を文字通り終焉させる人間から、自分のかるた人生を後世(=太一)へと繋いでいく人間へと変貌を遂げるのです

周防が太一を目にかけたのは「(千早たちと違って)迷いがあるから」というものです。「根っからのかるた好きではないから」と言い換えてもいいでしょう。これは、暗に「自分はかるたがそんなに好きではない」という姿勢の顕れとも取れます。ところが、強くなればなるほどに、かるた好きとの付き合いが増え、自分の胸中を理解する者は少なくなっていく。そんな状況にあって、前向きな姿勢でいる方が無理筋ですよね。そんな彼にとっての太一との出逢いは、似た者同士で肩を並べられる貴重な時間だったことでしょう。

太一へ技術的な指南を行った他、講師の仕事のアシスタントとしても彼を同行させています。彼は予備校の講師で、就学準備をする若い生徒たちを相手に授業を行なっていました。俗に言う浪人生や、遊びにだって使えるはずの時間を勉強に使う生徒に対しては、勿体ない時間の使い方をしているとすら言い放つ。音を聞き分ける技術を十分に教え、それでも二の足を踏んでいる太一に、時間の浪費場たる予備校にいるべきではない送り出した周防からは、大人としての器量を感じました。

新からの懇願を聞き入れ、現役をオマケで1年延長したのは、若い世代からの挑戦状を新鮮に感じたからのようです。しかし、今となっては新との対局を行うのは自分ではなく、太一に委ねることとしました。脈々と続いていくであろうかるたの未来を担う人間にバトンを渡したことで、周防の役目はひとつ果たされたと言えます。「真の強さとは、後世には希望を、相手には敬意を、仲間には勇気を与えるということ」を太一に伝え、それを受けた太一が新との勝負を制したことで、自らが真に強さを発揮したことを証明したのでした

周防にとってのかるたは、視力が弱いから消去法で選んだものでしかありませんでしたが、物語の最後には太一という後世から感謝を告げられるほど大きな足跡になっていました。

 

未来に目を向ける千早

「ちはやふる」はもちろん千早の物語でもあります。
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彼女が物語の前半に示す将来像は進路調査票に書かれた「クイーン」の一単語でしかありませんでした。先生の言う通り食べていける職業として成立するかしないかといった問題ももちろんありますが、千早にとっての未来のビジョンがそれに限定されてしまっている描写にもなっています。

千早が、かるたを好きで好きで仕方のない人物であることは前作でも散々見せつけられていましたが、進路選択を迫られる高校三年生という舞台に移るやいなや、かるたとの付き合い方を真剣に考えないといけなくなってしまいました。今までは瑞沢かるた部の面々との絆や大会での競争を通じて、その場その時を楽しむだけで良かったのだけれど、それを未来に向ける意識が芽生えると、千早に変化が訪れます。

高校最後のかるただからこそ、今まで以上に真剣に打ち込みました。全国出場をかけた大会では、今まで以上に集中力を発揮する演出として、今まで多用されてきたスローモーションに加えて、景色の暗転が用いられたのが印象的です。周囲の雑音を塞ぎ、余計な情報を削いで、意識を向ける札を浮かび上がらせ、快進撃に転じるパートは見入りました。

しかし、千早以外のメンバーは大苦戦。対戦相手の北央に、勝負の決め手となる運命戦の札を合わせられてしまい、結果敗北してしまいました。千早は自分たちの試合ばかりを見ていたわけですが、進行していた別の試合の勝敗が瑞沢の準優勝の可能性に寄与し、結果が明らかになる瞬間の緊張感は凄まじいものでした。

焦燥を煽るようなBGMが、電車の通過音に変わり、踏切沿いで太一と再会した千早。なぜ、かるたから離れてしまうのかという想いが電車の轟音と共に観客にも伝わってきますし、去りゆく電車の方向が2人の決裂を形にしていたようにも思います。かるたではなく受験に向かう太一の心を千早は変えられず、千早もかるたの事しか考えられていないすれ違い。この時点では、2人が見ている目標や未来は交差していません。千早はクイーン、太一はちはやへの想いを押し殺すように受験。

けれども、この軋轢を経て、2人の共通項であるかるたは、彼らの仲立ちとして役目を持ちます。太一は周防に、千早は原田先生に、今の自分が何をすべきかを悟らされ、まずはそれぞれの道を進みました。太一が周防から守りのかるたを教わる一方で、千早はもっと強くなって太一を待つという意思を確立させ、全国大会に励みます。

この過程で、瑞沢かるた部に入ってきた新入生が、千早たちの後ろ姿を見て、着実にバトンを受け取っている様が描かれているのも心憎い

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筑波は、チーム戦と相反する個人主義、実力主義な考え方を当初は持っていましたが、北央戦を経て、その考えを改めるキャラクターとして描かれています。「上の句」では、初心者である机くんがチームと団結するドラマが展開していました。それと同様の壁が、今作では、中盤でさらりと解決することになります。自分しか見えていなかった筑波がチーム戦を知り、周囲に暖かく諭されるさりげのない描写ひとつとっても、瑞沢の伝統や理念が受け継がれていく希望が示されていると思いました。

かるた初心者の菫もまた、初心者キャラクターでは机くん、かなちゃんと同じでありながら、3年生を傍観しているうちにかるたに引き込まれていくという役割を持っています。瑞沢かるた部の3年間は、決して仲間内の閉じきった世界ではなく、菫のような外からやってきた子にだって影響を与えられうる力を持っているのだと実感させられます。

強くなって太一を待つという千早の決意と共に、全国を勝ち進んでいく瑞沢。その過程で多くの敗退者を目にする千早。「かるたに打ち込んだ経験は未来でも生きる」という言葉をかける指導者の姿に目を奪われる千早の様子が印象的でした。これは、具体的かつ狭義的なクイーンばかりを目指していた彼女にとっての新視点であり、自分が志す目標以外に、他人に与えていく尊さを意識する始まりなのです

最後に描かれた千早は、多くの部員を抱え、存続していた瑞沢かるた部の指導者となっていました。「世界で1番のかるた取りになる」という目標は、新にも宣言した通りですし、詩暢への挑戦意欲も示していました。でも、敢えて最後に映されたのは、下の世代にかるたを語り継ぐ姿であることから、この映画の力点は、「競技かるたの勝敗、実力」ではなく「競技かるたを語り継ぐ者達の尊さ」にあるのではないかと解しています。

千早含めた瑞沢かるた部の3年生も、太一を導いた周防も、原田先生も、彼ら全員がかるたを愛し、次の世代に伝えていく姿が眩しいです。フィクションの登場人物でありながら、現実に生き、様々な文化風習を受け、またそれを語り継いで、続いていく我々の集約的存在となっているところに唸らされます。生物学上の遺伝子(GENE)ではなく文化的遺伝子(MEME)を残す壮大さと素晴らしさを、1000年に渡って続いてきたかるたを題材としたこの映画で表現したのは、偶然ではない制作者の意図を感じました。

モラトリアムの最中には、好きなことに打ち込める。けれど、いつかは選択しなければならない。そして、千早が選択した先は未来永劫に続いていくかもしれない文化の継承役だった…「ちはやふる -結び-」の結びとは、過去と今、今と未来を結び、川のような時の流れの中で文化を結んでいくことを意味しているのだと言えるでしょう

 

まとめ

「ちはやふる -結び-」は、魅力的なキャスト、競技かるたの細やかな描写、迫力と静けさを併せ持った工夫に満ちた映像、そして見る者に今日明日を生きるエネルギーを与えてくれる物語がありました。

中でも今作を他の青春映画と引き離したのは、上記に語ってきた青春のその先へ大いなる希望を託しているメッセージです。登場人物が1000年前に詠まれた歌を知り、競技として情熱を注いでいる様を描いたのが「上の句/下の句」でした。それが、この先どうなっていくのか?という部分にまで及び、一見直接的に将来には繋がらないかもしれない部活動やスポーツのあり方、それに関わる人たちの役目を誠実に書き出したのは、独自性があり、何より多くの観客に響くものです。

「ちはやふる」は漫画をあまり読まずに、映画で楽しみました。そんな自分にとっても、「結び」は素晴らしい実写化作品だと言いたくなります。競技かるたの魅力を知ることができ、必死な登場人物の想いに共感した「上の句/下の句」の良さに加えて、上記の優れたテーマが語られた本作は、高校生に限らず、どんな世代の鑑賞にも耐えうる作品だと感じました。

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