こんちには、入社して既に有給を2回発動したワタリ(@wataridley)です。
今回のレビューはウェス・アンダーソン監督による長編ストップモーションアニメ「犬ヶ島」。
今作は近未来の日本を舞台にしており、タイトルにあるように犬が活躍する内容になっています。
日本が舞台のストップモーションと言えば、「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」がありました。
冒険活劇的な要素を含み、デフォルメチックにキャラクターが描かれていた「クボ」に比べると、この「犬ヶ島」は現実世界の風刺めいた描写の数々や、生々しい仕草や言動をとる犬や人間が出てきたりして、やや毒気を感じる内容です。
ウェス・アンダーソンが作り上げた日本は独自性に満ち溢れており、もはやこれは現実の日本とはまた別の「日本」と言ってもいいでしょう。ウニ県メガ崎市という架空の地域を舞台にしていることからも、リアリティより彼の創意性を優先しているようです。
ディストピアを作り上げる政治権力者、放棄された犬達、それを助けようとする1人の少年、権力に立ち向かう学生達、病を根絶しようとする科学者達など、多彩な登場人物が浮世離れした世界の中で奮闘する様は、実に奇妙奇天烈。最初見た時は情報を捌ききれない自分がいました。
しかし、一見散逸でまばらに思える要素の数々がひとつの映画にまとめあげられている調和具合に心を掴まれたのも事実です。
初見時に理解できなかった悔しさもあって、2回観に行き、感想をまとめてみました。よろしければお付き合いください。
尚、例のごとくネタバレが含まれているので、未見の方はご注意を。
70/100
従属物の過酷な現実と救い
「犬ヶ島」における犬は何を意味するのか。
自分が考え、導き出した答えは犬=従属物の象徴ということでした。
(C)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation
作中の彼らは、小林市長と彼の工作に扇動された市民によってあのゴミ島に追いやられました。それまでは人間と共存していたにもかかわらず、飼い主たちが伝染病であるスナウト病への恐怖を抱え始めたことで、犬はあっさりと見捨てられてしまったのです。
運命を人間のエゴイズムに左右されてしまう犬は、か弱い存在と言えます。
子供たちに囲まれていた犬も、ドッグフードのCMに出ていた犬も、球団マスコットだった犬も、健康的な生活を送っていた犬も、みなゴミ島では食べ物のために必死になる毎日。
飼い主が誰なのかによって自分の装いが決められ、放棄されてしまえば、それを惜しむことしかできない彼らの姿は、犬が立たされている劣悪な状況を表しています。
シンメトリーが描くアシンメトリー
(C)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation
(C)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation
しかし、実際には渡辺教授の研究結果を隠滅し、メイジャー・ドウモを通じて彼を殺害させてしまっています。更に非公表の会議の場では、反対意見者の抹殺に加えて、病気そのものを流行させた事までも言及しており、すべてが彼の手引きによって作り上げられていたことが語られていました。
左右対称で均整のとれた世界の実相は多くの欺瞞を孕んでおり、小林一族とそのステークホルダーによる強権政治が敷かれていたのです。発言権のない愛犬家と犬たち、そして実権を握る犬排除派が示す左右非対称的な構造は、丸ごと政治の場で起こっていることの皮肉になっています。
人間が生んだ歪み。人に手懐けられていた犬に、そのしわ寄せが向かっているというのが「犬ヶ島」の当初の状況であり、現実世界への鋭い風刺にもなっています。
ことばは壁
養護施設で保護される捨て子や虐待を受けた子と違って、ゴミ島に捨てられた犬たちは、自力で生きるしかないというところがいっそう辛いです。
野良犬のチーフはともかく、他の飼いならされていた4匹の毛並みはすっかり荒れ果てていますし、とあるシーンでは体に虫が這っている様子からも環境の劣悪さが見て取れます。ケージに閉じ込められたまま死んでしまった犬や食糧不足からやむなく仲間を共食いした犬の存在も示されており、知らず知らずのうちにも犬を傷つけている人間たちの業も心に突き刺さりました。
そんな暗がりの中にいたチーフたちに、ある日突然差した光が小林市長の養子 小林アタリでした。彼は、身を挺して愛犬のスポッツを救いにきました。アタリがスポッツ探しの旅を通じて、幾多もの危険を乗り越えて、犬たちと交流する過程は過酷な現実へ向けた希望です。
(C)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation
この映画では登場人物は母語を話し、犬は英語を話すという前置きがありましたが、これは言語によって異種族間を隔てる壁を明確にする役割を持っています。
犬を迫害する小林市長らが口にする日本語は、(今作の製作国である)アメリカでは当然聞きなれない外国語です。外国語で話される言葉は仮に同族である人間であったとしても距離を感じてしまう効果があります。逆に異種族である犬が英語を話すというのは、イングリッシュスピーカーの聞き手に親近感を与えるものです。
実はその点で、日本人である我々はこの作品の意図をすんなりとは受け取ることが出来ないというデメリットがあります。
本来言葉を交わすことのできない人と犬とが意思疎通を図れるイヤホンマイク式の通訳機は、アタリとスポッツにとっての拠り所ですが、裏を返せばそれなしで繋がることはできません。スポッツが「聞こえます(I can hear you)」と泣きながら答える様子には、身体的なコミュニケーションを禁じられた2人が装置に頼るしかない切なさと、それでもやはり繋がりを受け入れる喜びとが同居しているように映りました。
壁を越えるアタリとチーフ
自分にとって、人と犬とが言語という壁で隔てられている中、それでも絆を結ぶアタリとチーフは特別に感じられました。
チーフは、純然たる野良犬ではなく、実際には人に飼われた経験があると道中で明かしました。
保健所から脱走する前に引き取られた先の家で、子供の手を噛み千切ってしまったのだといいます。その時の記憶が彼の中で尾を引いているようで、アタリと出会ったばかりの時のよそよそしい態度にもそれが表れています。
しかし、そんなショッキングな出来事があったのとは裏腹に、チーフはその家で食べたエビチリを好物として挙げてもいました。それが自分のために作られたわけではない残飯なのだと悟っていながらも、味の良い食べ物だからか好きになってしまうあたりに、彼の孤独な境遇が伝わってきました。とてもセンチメンタルな独白です。
「俺は噛む(I bite)」という言葉に表れているのは敵意でもあるし、素直に人と交わることのできない彼の弱みでもあります。他の4匹とはぐれてしまい、偶然アタリと2人きりで行動するうちに、そうした人間に対しての不信と恐れが解けていきました。
アタリが寂しげに口笛を吹けば、チーフはそれに応える。
アタリが棒きれを投げれば、チーフはそれを取りに行く。
このやり取りは、言葉による意思疎通ではなく行為による好意の示し合わせと言えるでしょう。
チーフは、アタリに「おすわり」と指示されても最初は反目していました。チーフは言われるがまま従うほど素直ではなかったからです。
ところがここでは、指示されたからではなく「可哀想だから拾ってきてあげるんだ」と言って結果としてアタリの気持ちに応えています。これは表面的なバーバルコミュニケーションではなく、相手を慮ったうえでの行動です。
アタリも棒を拾ってくれたお礼にと、ひどく汚れていた彼の体を洗ってあげました。そしてチーフにしても初めてのシャンプーを終えた後、スポッツ探しにすっかり乗り気になっており、2人が相互に影響しあう対等な関係となっていることを物語っています。
2人はヒトと犬、しゃべる言葉は日本語と英語で同室ではないけれど、対等なのです。
また、チーフがアタリから貰ったビスケットを新しい好物にする一幕はとても印象的でした。
以前彼が食したエビチリは所詮人間が食べた余り、おこぼれに過ぎませんでした。アタリが彼の愛犬のために持ってきていたビスケットをわざわざ自分にくれるというのは、エサをやる行為という点ではエビチリと変わらないものの、エサをやる者の気持ちは大きく異なっています。
きっとチーフもその思いやりを汲んで涙を零したのではないでしょうか。
(C)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation
犬ヶ島は持つ者と持たざる者の違いを言語によって明確化し、持たざる者の行き場のない苦境を、毒気と少しの愉快さを交えて描いています。そしてその中で隔たりを飛び越える少年と犬にフォーカスし、慮ることが救いをもたらす様を素朴に映しています。
雑多な作品世界と登場人物、急進的な思想、奇抜な文化、目ざといアイテムや動きなど、数多の情報にあふれ、その意図を掴む間も与えてはくれませんが、軸となっている少年と犬の話はとても質素で明快な話です。
共存と自立の並存
この物語は最終的に、チーフがアタリ御付きの警護犬となり、スポッツは自らの家庭を営むというところで幕を閉じました。
(C)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation
この結末が映している彼らの在り方は大きく2つに分けられます。
ひとつは、前述したように、互いに異なる文化の出身のもの同士が結びつくという救いです。アタリ(ヒト)とチーフ(犬)、アタリ(日本人)とトレイシー(アメリカ人)は苦難を経て共に暮らす道を歩み始めました。
そしてもうひとつが、虐げられていた者が自立して、この世界で生きていくという救いです。
スポッツが選択した道は、アタリと暮らすことではなく、ゴミ島で出逢った妻とその子供達と暮らしていくこと。ラストシーンは、デモの事件から命からがら生き延びた彼らの一家団欒の食事風景でした。
神社で祀られている彼らの名誉は、最初に比べてずいぶんと挽回されています。これは彼らが飼われる側ではなく、有り難がられる側に回ったという、非常に大きな意味を持つ描写です。食事を提供していた神主は、飼い主ではなく彼らを補助する役目を持っているのだと考えられます。
作中冒頭で語られていた伝説において、人間にとっての犬は飼い慣らす対象となっていました。現実においても、犬と人間が対等平等な存在という風潮が優勢とは思えません。
「飼い慣らすべき犬」は、保護すべき子供や救済すべき社会的弱者の言い換えにもなります。人は、概して、か弱いとみなした存在から主体性を取り払ってしまいがちです。今作の犬も最初は、単に所有される側故、人間の都合に振り回されていました。
しかし、彼らとて、ひとりの生きとし生けるものすべてのひとりであるという点で、人間とは変わりありません。人がいちいち介入せずとも、勝手に生きていきますし、家族だって作るのです。
アタリと同じ病院で治療を受けたスポッツが、回復した後に道を違えて家族だけで食事をする風景は、犬の独立が描かれているように映りました。右目を失明したとしても、なお家族を持ちながら野生として暮らす姿は強かです。
異種族が共存する様が描かれる一方で、かつて力無き者として扱われていた犬が自立して生きる姿が描かれた今作は多面的な視点を持っていると思います。
まとめ
今作は、ストップモーションアニメの特性を活かした可愛らしいキャラクターと、現実味を感じさせる毒のある描写とがクセになる作品でした。
ちょっとだけ不満点を挙げていくと、表面的なストーリーは極めて簡素で、意外性のカケラもないところは確かにありました。描写不足なおかげで、終盤にアタリが俳句で場を収めるあたりは、日本人の自分からしても不可解な流れに感じてしまいました。道中の旅路も特筆するほどの映像スペクタクルが無く、絵的には地味だったところが惜しいです。
とはいえ、キャラクターの愛らしさや物語の裏に潜むメッセージはじっくり味あわせてもらいました。
犬は結構リアルな造形をしているし、喋り方もまんま人間的ではあるのですが、言葉の端々から犬の特性が出ているところが独特な愛嬌を生んでいたと思います。
唯一オラクルだけは、今まで見た犬のキャラクターでダントツに可愛い部類に入ります。もっと台詞や出番が見たいぐらいです。
メッセージも掘ってみると意外とシンプルであり、普遍性も持ちわせています。
最初見た時には情報量とその奇抜さに度肝を抜かれましたが、2回繰り返して見ると、ウェス・アンダーソンの拘りや語り口には胸を掴まれました。何度も見返して気づく描写もあるでしょうから、これからも機会があるたびに集中して観たいです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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