どうも、ワタリ(@wataridley)です。
今回はディズニー+で配信された『私ときどきレッサーパンダ(原題: Turning Red)』のレビューです。監督は短編作品『Bao』を手掛けたドミー・シー。
ネタバレありで語っていますので、ご注意ください。
モフモフに尚も驚かされる
まず、今作が『トイ・ストーリー』を生んで以来、絶えず3DCGアニメーションの最先端を行くピクサーの作品であることを念頭に置いたとしても、目を見張るのが、微細でリアルなレッサーパンダの毛並み。
とはいえ、髪の毛や体毛といった表現は、かつては2002年『モンスターズ・インク』のサリーに始まり、2013年『モンスターズ・ユニバーシティ』における同キャラのブラッシュアップされた表現でそろそろ頭打ちではないかと思っている部分もあった。
しかし、今作の毛並みの表現は、それらを完全に過去のものにしている。色素の濃淡はもちろん、陽の光や風といった物理的な作用をごく当たり前に受けており、アビーら友人たちが抱きしめた時の感触や温度感までもが画面越しに伝わる域に達している。レッサーパンダの柔らかそうなお腹の弛みと、ふさふさに生えた毛についつい手を伸ばしたくもなる。しかも、質感と物的干渉の描写がここまでリアルであるにも関わらず、丸っこい目つきに始まり、各パーツの模様は可愛らしいマスコットのレベルにデフォルメナイズされているのだから、違和感をまるで抱かせず、愛らしいキャラクターを現出させるグラフィックには、唸るほかなかった。
とにかく、かようにレッサーパンダの可愛らしさだけでもフェチズムをくすぐられる今作ではあるが、もっとも素晴らしいと感じたのは、何よりもドミー・シー監督がそれを用いて表現した女の子の物語である。
レッサーパンダは日本でもかつて風太くんが話題になったのが思い出される。威嚇の際に二足歩行で立つ人気の動物、いわゆる獣(ケダモノ)だ。その獣に主人公メイメイが突如として変身できるようになるというのが、今作の大きなサプライズだ。
このメタモルフォーゼが波乱を巻き起こすさまは、さながら『らんま1/2』や『フルーツバスケット』を連想するのだが、実際にドミー・シー監督自身も慣れ親しんだことをメイキングやインタビューで語っている。そもそも今作の舞台設定は2002年のカナダの都市トロントで、何を隠そうドミー・シー監督は当時メイメイと同じ13歳だったというのだから、今作は自伝的な物語にして、作り手の嗜好が反映された作品だ。そしてこの作り手の「好き」が反映されている構図は、そのまま今作の物語にも通じてくるから興味深い。劇中でたまごっちを用いたコミュニケーション演出も、そのツールに慣れ親しんだから出てくる発想なのだろうと思える。
レッサーパンダになってしまう現象は、思春期の女の子の身体に変化が生じるという一点から、いったんは二次性徴を彷彿とさせる。メイメイの母親ミンの勘違いではあったものの、ここでさらっとタブー視されがちだった生理について言及していたのも、はっとする描写ではある。いずれにせよ当初はその変化に戸惑い、周囲の人間にも打ち明けられず、家族でその変化を共有しても他人には隠そうとする様子にしても、デリケートな話題として公に口にすることは避けられがちな事情を重ねてみることができるのかもしれない。
(C)2022 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
思春期あるあるを楽しくおかしく包み隠さず描く
ただ、今作のレッサーパンダはそうした外見上の変化を導入としつつも、メイメイが自らの姿=アイデンティティを肯定的に捉えていく姿こそが肝要だ。
冒頭からハイテンションなノリで自分や周囲のことについて語るメイメイのナレーションの無敵感は、自己中心的に世界を捉える溌剌としたエネルギーを画面に投影しているようでもある。一方で、彼女はそうした自分語りとは裏腹に、実際には母親からの言いつけと摩擦が生じているギャップも露呈していく。
序盤に母親から隠れてこっそりと妄想をノートに書き連ねるシーンなんて、そうした思春期あるあるの典型だろう。彼女が友達と同じアイドルグループのライブに行くことが今作のメイメイにとっての大きな動機となっている点において、今まであまりクローズアップされてこなかった女性の欲望が物語を駆動していると言うことが出来る。そしてそれこそ、今までアニメーションで排されてきたものであると同時に、今作のメイメイが直面していた問題とも符号するのだ。
今作では、女性が成長していく途上で受けるカジュアルな抑圧を、親の教育方針や家のルールといった形で示している。母親のミンは、メイメイが愛好するアイドルグループの音楽性には理解を示そうとはしないし、劇中ではちょっと大げさな誤解もあって思春期に抱く欲求の対象をメイメイから取り上げようとすることさえもある。程度の差はあれど、自分の趣味を親に理解してもらえないという様は、誰にも覚えのあることだろう。
一方で、メイメイはそうした母親の目を盗んでこっそりと友達とアイドルグループへのライブ参加を画策する光景にも、心当たりは多分にある。ピクサー作品では、『トイ・ストーリー』をはじめ、「バレるかバレないか」をサスペンスとして物語の基本ルールに組み込んだ作品がしばしば見られる。ウッディ達玩具は持ち主のアンディに動いている所を見られてはならないし、ピクサーの近作『あの夏のルカ』では水に濡れたら露呈する正体を隠して街で生活する。今作ではいかにもレッサーパンダの変身が肝になっているようでいて序盤で鳴りを潜め、以降は、家族はもちろん、友達にさえも半ば公然の事実として認知されている。しかし、面白いのが、その変身を「親から隠れて行う」という点を、サスペンス要素として組み込んでいるところだ。今作において重要なのは「バレるかバレないか」ではなく、「古くから継承されてきたルールに従うか否か」なのだ。
その反抗を今作では、アイドルのライブへ行くための資金集めと称してレッサーパンダをビジネスにして稼ぐ様子をリズミカルなカットの組み合わせで表現しており、いかにも中学生ぐらいの子どもたちの悪巧みのような楽しさに満ちている。従来型の物語で言えば、こうした行いはいずれ「よくないこと」としてしっぺ返しを喰らう展開に収束していくのだろうが、今作はあくまでも欲望(=自分の中のケダモノ)を曝け出す楽しさとして表現しているのもラストで効果的に機能している。
メイメイは祖母と母親からの忠告を破ってレッサーパンダになるが、それこそ女性が押さえ込んできたケダモノを解放していくアクションなのだ。封印の儀ではとうとうメイメイはその古くからのルールにNOを突きつけて、ライブへと飛び出していく。戸惑いのあまり建物の上を駆けていく序盤のシーンとは打って変わって、ここでは街の上を変身しながら飛んでいく場面の解放感が気持ちよく映る。ところで、この場面の夜景の、パステルカラーのライトアップやシルエットの感じが90年代のセルアニメを思い出させる。(具体的には『セーラームーン』)
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レッサーパンダを抑え込んできたこれまでの個人、家、社会
欲望を曝け出そうというシンプルな自己肯定のドラマに留まらせないのが、ここからミンが暴走してしまうクライマックスの妙だ。
ミンは、メイメイとは逆に家訓に忠実に生きてきた女性として描かれている。着ている服でさえも、レッサーパンダを封じ込めているアクセサリーを除いては、赤色とは対照の緑や青といった色で固めていることからも、ケダモノを抑え込んできたことが色味で示されている。そんな彼女は、親の世代の言いなりになっていたのと同時に、欲望を隠さずに生きようとする娘の世代に向き合わざるを得ないという板挟みに遭っているとも言える。
既に述べたように、レッサーパンダの呪いとは、女性特有の身体的・精神的変化と解釈することもできるが、これに加えて、彼女たちが中国にルーツをもつ中国系カナダ人であることや、事の起こりとして伝承されている家を守るための力としての側面を踏まえると、文化的な背景と捉えることもできるようになっている。寺院の観光業に勤しみ祖先の伝統を重んじるかたわら、娘の教育に熱心なミンの様子は、移民が移住先の土地で生き残るための生存戦略のようでもある。だから、クライマックスにおいて、彼女がさながら怪獣のようにライブ会場で大暴れする様子は、抑圧が個人や家族の範疇を超えて社会的な問題にまで及んでいることを物語っている。
脈々と引き継がれてきたシステムに従って生きていたミンが、実は彼女の母から夫との結婚の許可をもらう時に暴走していたというのも、苦労の足跡を感じさせるのだが、そういった背景があるから対照的にレッサーパンダを解放して友達と好きなグループを応援することを選択するメイメイの選択が眩しく見えるのだろう。欲に忠実に生きるメイメイに「あなたじゃない」と叫ぶミンに対して、男の子や音楽が好きと堂々と言ってのけ、巨大なレッサーパンダとバトルを繰り広げる戦いは、冷静に考えれば馬鹿げている。家族みんながレッサーパンダに変身して事態に立ち向かうシーンなんてなんだか変身ヒーローものっぽいし、4townがそこに加わって儀式を成立させるなんて、都合が良すぎると言えば良すぎる。しかし、好きなものは好きだという思春期のエネルギーが豪快な映像へと転換されている様はやっぱり面白いし、それこそまさしくアニメーションの醍醐味だとも思うのだ。
パンダを封印するか否かという問題は、結局の所メイメイとミン達の間で取る選択肢は別々なのだが、最終的に自分のケダモノを外に出して生きていくメイメイと、外には出さずに(たまごっちで!)飼いならすミンなど、それぞれの方法で共存していく結末の付け方も、限定せずに多くの人に対して可能性を示しているようでもある。ミンのように、それまで従ってきた価値観にドラスティックに別れを告げることはできなくとも、我が子の望む道を応援することはできるのかもしれない。
ピクサーとディズニーでは、これまでにも『リメンバー・ミー』や『ミラベルと魔法の家』などで、家族と主人公の関係を主軸においた作品を見てきたが、今回はとりわけ目線が少女に寄り添っていて、親の世代が抱えてきた問題と現代に生きる少女の違いを照らして、これからにエールを送る開けた作品になっているのではないかと思う。
(C)2022 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
まとめ: ピクサーの歴史を分ける一作
今作はドミー・シー監督ら制作スタッフの個人的な体験が大いに反映された作品で、きらきらした目など日本のアニメーションっぽい表現も見られるように、これまでのピクサー作品とは作風ががらっと変わっているところからも、新しい風を感じることができた。
また、ディズニー+で同時に配信している『レッサーパンダを抱きしめて』では、制作過程のドキュメンタリーとしてはもちろん、主要スタッフ達の伸びやかにものづくりをしている様子や、メイメイのような思春期の思い出、やっぱり影響を受けていた日本のアニメの話などにも触れられていて、これと併せて見ることで、より作品が好きになった。まだ観ていなければ、是非とも本編と併せてオススメしたい。
自分の「好き」を包み隠さずに作品に投影していくクリエイティブな姿勢が作品を豊かにしていることを実感させ、それが女性にしてアジア出身の監督から生み出されたこと自体が、とにかく嬉しく、ピクサーはもちろん、今後のアニメーション業界の潮目が変わっていくんじゃないかと期待せずにはいられない一作だった。
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