13話(最終回)「雪の降る日」
番組の構成はいつも通り、アバンがあり、OPが流れ、Aパート、Bパート、そしてエンディング。最終回だからといって極端な飛躍表現があるというのでもなく、あくまでこの作品らしい平熱を保ったまま、背後ではとても大きな感情の起伏が巻き起こっていると思わせる作りになっている。それなのに、最後にはとてつもない波が胸の内に押し寄せてくるのだから、とにかく脱帽する。
例えば、風邪の兆候があったあかりが体育の時間に見学していると、一瞬志保と目が合うも、すぐに背けられてしまうシーン。雨の音や先生の話し声が反響する中でふとした緊張が走る場面であるが、最終回にまできて修羅場に発展しそうな局面に至っても、いつもの景色に潜む視線のやり取りを主軸にしたドラマの展開が一貫している。
これまでの他の回と比較した際に、この回が大きく異なって見えるのは、ひとつに全体の物語を締めくくる最終回が纏う「終わりの予感」が理由ではあるだろう。
そして何より、これまで何気なく続いてきた日常が、風邪を契機にあかりが不在になることよって、一時的に損なわれるせいでもある。前回に志保の起こした行動があかりにも伝わり、いよいよ不可逆的な変化が生じるのかもしれないという不安が、このちょっとした非常事態に近似する。この状況設定はやはり本作らしい。大きな事件や事故などには頼らず、あくまで日常の延長線上たるあかりのただの風邪が、物語のクライマックスを引き出すのだ。
Aパートの体育の見学シーンを最後に、本作の1話から視点人物を務めてきたあかりがしばらく不在になる。この作品は(主に浩之に対する)あかりの表情・視線を事あるごとに描いてきただけに、そんな些細な空白期間すらもある種の異常と映る。その日の夜に浩之と電話する場面においても、あかりは声のみで表情はぎりぎり映らないという措置を取っているために、電話越しの浩之よろしく、視聴者からもあかりの内情を具体的に伺う機会は取り上げられてしまう。パーティ会場の下見にいった時に浩之といつもの調子で張り合えなくなってしまった志保の様子も同様で、Aパートは兎角視線の途絶が一種のフラストレーションを生じさせている。
そうした視線の遮断を明確に打ち破る瞬間が、お見舞いに訪れた志保に、あかりが浩之のことをどう思っているのかを尋ねる場面だ。ここまでの壮大な溜めを振り払うように、あかりの顔の動き、髪の靡きはとりわけ精細に描かれ、大きな双眸が志保の方へ真っ直ぐと向かう。あかりの表情を控えてきた引き算から、このダイナミックな芝居が印象づけられていることは言うまでもない。劇伴の使用を控え、Aパート終わりBパート始めにも音を鳴らさない、ここぞという抑制も光る。室内に響く薬缶の音で高められた緊張感をはじめ、千羽由利子がレイアウトを手掛けたというクマのぬいぐるみをはじめとした小道具の数々に、西陽を背にした二人の顔に生まれる陰影、幼少の浩之とあかりが写った写真といった構成要素の全てが、この室内に流れる空気の肌触りを伝えてくる。
浩之への好意を尋ねられた志保は一笑に付し、「そんなことあるはずないでしょ」と、顔を部屋の隅に向け、あかりからの視線を躱してしまう。おそらくこれは咄嗟の出来事に対して、本心を打ち明けた先に起こるかもしれないことを恐れての反射的な回答だ。この両者の台詞と、それに応じた表情と視線の向きに着目すると、もうこの一連のシークエンスは、とてつもないほどに感情が横溢していることが読み取れる。
一方で、志保の一旦の回答をよそに、「私は好きだよ浩之ちゃんのこと」と、全13話の最終回のBパートにもなって、あかりはようやく「好き」という直球の意思を口にする。そんなことは志保にも視聴者にもまさに「今更そんなこと」とでもいうべき、わかりきったことである。しかし、志保の態度の変化をトリガーとして、これまで黙認されてきた関係をそのまま保ち続けることを、あかりはできないと悟った。それは、浩之との変わらない日々を積み重ねてきたこの作品においてはとてつもない重みを持つ。遅かれ早かれいずれ変化の刻が訪れようとしているのだと、強烈に突きつける宣言にほかならないからだ。
これを受けての志保の答えは、先の回答の繰り返しに過ぎないようにも思える。しかし、それは大きく異なっているだろう。志保は部屋に飾られている写真立てを見つめてから、「あんな奴全然好きでもなんでもない」と今度は、はっきりと気丈な表情をあかりに向けるのだ。やおら流れ出すメインテーマのピアノの音は、静かに、前向きに、この志保とあかりの決断を後押ししており、安堵と感激とが一斉に押し寄せてくるような心地を与えてくれる。
ついに志保は浩之への好意を告白せず、モノローグでも形にしないままに踏みとどまった。しかし、額面通りすべてがここで終わったわけもなく、志保があかりから食べかけのプリンを取り上げて寝かしつけているように、あくまで結論は棚上げにされたということでしかない。浩之、あかり、志保、雅史が四人揃っての今の関係には、どこかのタイミングで何かしらの変容を迎える時が来る。2話で描かれていたような、みんな揃ってライブに行くなんてことももしかすると、過去のものになってしまう日が来るのかもしれない。
結局のところ、ここで志保が取ったアクションは、先延ばしや一時凌ぎに過ぎないのかもしれない。しかし、視線と視線の交わりという本作においてこれまで控えられてきた交感を経たことで、その言葉が取り繕うものであったとしても、その取り繕いこそが、今選び取った本心なのではないかと実感させる。志保はひとまず今のままでいることを選択したということだ。
劇中交わされるパーティに行けるかどうかのさりげない会話の反復が、最後に胸を撫で下ろさせるのも、このかりそめの決意が背後で交わされているからだ。表層的には、風邪を引いてしまったあかりが、パーティに参加できるかどうかの話題でしかないのかもしれない。だがその裏では、パーティの手伝いをできずにその上志保の浩之への態度の変化を感じ取ったあかりが志保へ抱く後ろめたさと、あかりを出し抜く形で浩之を手伝いに付き合わせた志保の後ろめたさとが交錯している。だから、クリスマスパーティという交点をお題目に、最後に電話越しに二人が「パーティ、行っていいかな?」「何言ってんの、早くおいでよ!」という会話は、二人の間にあった蟠りがとける、何気ないが大事な意思表示なのだ。この時の志保のかけがえのない喜びを湛えた瞳の動きは、この後のクライマックスにも決して引けを取らない(生命を吹き込むという原義の意味での)アニメーションだ。
かくして、「いずれ変わってしまうかもしれない予兆」を背にして、この最終回は、それでも今まで続いてきたものを大切にするということを描いている。その到達点にして本作最大の象徴が、第1話であかりが夢に見た景色の石段だ。そのリフレインが、心の澱に埋もれていた浩之とあかりのたしかにあったひと時を再確認させる。教科書を落としてしまい泣きじゃくっていたあかりを浩之は何気なく慰めたエピソードは、あかりと浩之の原点に位置付けられ、この作品の幕は上がった。その一方でこれまで見てきたように当の浩之はそのことを特別気に留めている様子はなく、記憶の片隅からも消えてしまっていたようだった。1話も今回もあかりがそのことを話そうとすると間が悪く遮られてしまっていたし、8話でそのことについてあかりの口から聞かされるもとうとう思い出すことはなかった。そうした石段にまつわるエピソードを溜め溜めて訪れたのが、あかりの不在というちょっとした非常事態に際して、あかりからの電話越しでの呼びかけをきっかけに、浩之は石段に思いを巡らせる。
この最終回では、いちおうゲーム版ではプレイヤー視点であるはずの浩之は殆ど主観的なシーンがない中、終業式の登校の最中に立ち止まって、その石段を見つめる場面が印象的だ。浩之の表情は画面側には伏せたまま、徐々にその後ろ姿に迫っていき、一瞬のアップを経た後、すぐさま学校のカットに切り替わり、視聴者にその内面を掴ませないまでも、校内放送のチャイム音が閃きのようにも響く。この階段前の坂道の風景や、その直後のあかりがいない中での終業式の様子も、とりわけ最終回と第1話とで対となる構図も繰り出される。どちらの回の絵コンテも監督自身が手掛けていることから、見知った日々をリプレイを通じて、それぞれの視聴時に抱く体感をも呼応と対称を成す設計となっている。
そして、特筆すべきクライマックス。いつもとは反対に、あかりの家まで迎えに来ていた浩之が、原点となる石段の前であかりと再会して結末を迎える。とにかく抑制的な演出と高校時代の思い出を再生していると錯覚してしまうような筆致で物語を紡いできた本作の、最後に二人の関係に取らせたアクションが素晴らしい感慨を与えている。キスもしなければ、抱擁も交わさない。ただマフラーと上着を交換して、少し身を寄せ合うだけ。既往のロマンティシズムの定石を回避した演出に呆気に取られながらも、考えれば考えるほどに本作らしい「終わらない終わり」の与え方であると言える。
ここで告白イベントや上述したようなもっと親密なスキンシップを取らせることは、凡ゆる作品がクライマックスらしい定石として採用してきたことを鑑みれば、安易に思い浮かぶ選択肢といえよう。そんな定石をまるで意に介さないように、今作が最後に掲げたのは二人の関係が決定的に変化する瞬間ではなく、これまで続いてきた関係を愛おしく見せる、むしろ真逆の結末だった。
では、本作はいつまでも互いに好意を秘めたまま友達以上恋人未満でいる「変わらない二人」を純朴に肯定するために、そうした結末を導いたのかと言えば、それとも大いに異なっていると思う。浩之と過ごしてきた時間をパーティに向かうあかりが回顧していたように、この物語は一貫して浩之といつまでの一緒に時を重ねていくと信じ続けるあかりの視点を通して学校生活を見つめてきた。ところが、最後に直面した志保とのすれ違いは、そうした時間が未来永劫続く訳では無いという真っ向からの揺らぎや疑いをもたらしてしまった。加えて、1話の冒頭であかりに手を差し伸べた出来事も遠い昔、まさしく夢の中のものになり普段は不精な体たらくとなった浩之の様子をはじめ、移りゆく季節、新しい友人との出会いもあって、二人は厳密には「あの時、あのままの二人」ではなくなったのだろうし、この先も絶えず色々な変化を迎え入れていくことなるに違いないのだ。
浩之が石段の出来事を思い出したラストは、そうした不安を超えて、あの時から変わらない光景を描き出す。再会した後、浩之は自分の教科書を使えと言っていた雨の降っていた朝の日の思い出を、今度は「雪の降る日」に上着をかけてあげる形で変奏する憎い反復が行われる。ただ浩之の記憶の中に埋もれていただけで、時間が経過してもなお、あの出来事はたしかにそこにあったということを実感させる。変わってしまうかもしれないという揺らぎ、あるいは変わってしまったかもしれないという疑いがあればこそ、それでも変わらないものを大切にするこのクライマックスが温かい光を帯びて映るのだ。第1話、始業式をバックに流れる神岸あかりのモノローグは、幼少期の夢のような時間がいつまでも続くと思っているような底抜けに楽観的な少女像をひとたび抱いたのだが、実のところ、大人になっていく過程での数多の変遷を予感しながら、その上で頑なに信じようしているのだと捉え直される。
全13話からなる本作は、まさにそうしたあかりと浩之の時間の一部分を切り出したもので、最後の締めくくりとして決定的な変化を描かずに、予兆に留めた(有り体に言えば、先送りにした)のもこの上なく必然的である。もし告白といった関係を決定づけてしまう行為を結末に置いてしまえば、丹念に描き出されてきたすべての機微は、くっつくことを至上に置いた文脈に隷属させられてしまいかねない。だから、この結末しかありえない。
緻密な生活描写の積み重ねから醸し出されるノスタルジックな空気も助けて、作品全体があたかも誰かがこの時を懐かしんでいる時間のようにも感じられる。本作を手掛けた高橋ナオヒト監督は、インタビューにおいて本作を「前向きなノスタルジー」と表現しているが、これ以上ないほどに本作のエッセンスを言い表した一言だ。未来に臨む中で、それでも思い出を大切にし続ける神岸あかりの営みが、心に触れるのだ。
そんな営為の過程を丁寧に描き込み、美少女キャラという本来虚構の産物を題材としながらも、劇中流れている時間の存在を信じたくなるほどの体感を得ることができたのも、キャラデザ・総作画監督の千羽由利子らアニメーターによる緻密な画作り、日々の空気を静かに抒情する音楽、温もりを宿した美術、そしてそれらを組み合わせて質実な芝居と演出といったあらゆるセクションの働きが調和してこそのものである。大きな事件は起こらないが、神岸あかりが見ていた夢のように、大切に胸にしまっておいて事あるごとに見返したくなるような珠玉の一作だ。
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