アイキャッチ画像: (C)荒川弘・HAGAREN THE MOVIE
こんにちは、ワタリ(@wataridley)です。
今回レビューする「劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」は、2003年に放送されたアニメ「鋼の錬金術師」の完結編として制作された劇場アニメです。
原作とは異なった展開、結末が描かれる本作。万が一にも下手に料理しようものなら、原作への冒涜という禁忌に触れたと指さされることだったでしょう。
しかも、舞台になるのは1920年代のドイツ。史実の事件や実在の人物までもが出てくるとあってなかなか興味をそそられる情報に満ちています。
尚、本レビューは荒川弘による漫画「鋼の錬金術師」とアニメ「鋼の錬金術師(2003)」、及びに「シャンバラを征く者」のネタバレを含んでいますのでご注意を。
64/100
「シャンバラを征く者」に至った経緯
アニメシリーズ2003年版ハガレンでは原作とは異なるアニメオリジナルストーリーが展開しました。これは、アニメが始まった当初は原作が数巻しか出ていないという状況であり、どう考えても放送中にストックが尽きるからです。
そこで取られた策が、前半は原作準拠、後半からオリジナルをやって、独自の結末を迎えるというもの。その結果、「シャンバラを征く者」にも関わってくる設定では、以下のような違いが生じました。
- 錬金術は地殻エネルギーを利用して発動する
- ホムンクルスは賢者の石を動力源とする人造人間であり、創造主は通称“お父様”
- 人体錬成を行った者は、真理の扉のある空間に飛ばされ、身体の一部を通行料とし、真理を覗き見て以降は錬成陣なしで錬成可能になる
03版アニメ
- 錬金術は別世界の死者の魂のエネルギーを利用して発動する
- ホムンクルスは人体錬成で生み出された人間のなり損ないをベースに作られたものであり、創造主はアニメオリジナルキャラクターのダンテ
- 真理の扉は真理の門という呼び名で、基本的な役割は同じだが、門の向こう側はパラレルワールド(我々のいる現実世界)に通じている
以上の大胆な設定改変に加えて、アニメではキャラクターの至る末路や設定にも違いが存在しています。
エドは最終回にてアルを蘇らせるために自身を材料にしたため、門の向こう側、ドイツのミュンヘンへと飛ばされます。マスタングは、プライドことキング・ブラッドレイを倒した後に僻地へ出向し、階級も取り下げ身をやつします。アルは最終的に肉体を取り戻しますが、鎧にいる時の記憶は失われました。
「シャンバラを征く者」はアニメ版で作り上げられた大きく異なる設定とキャラクターの上に、展開する物語になっています。
(C)荒川弘・HAGAREN THE MOVIE
欲張りすぎたストーリー
本作は1920年代のドイツを舞台にしているとあって、史実にもあるナチスやトゥーレ教会による陰謀や戦争の影がちらつき、ジプシーやユダヤ人が差別を受ける過酷な背景も語られています。
それを土台に
- 元の世界に戻ろうとするエド
- 余命僅かなアルフォンス・ハイデリヒのロケット開発
- 孤独なロマの少女ノーアの悲願
- 元の世界でエドを探し求めるアルの旅
- セミリタイアしているマスタングの戦線復帰
- ホムンクルス ラースの母親との再会
- エドを待ち続けるウィンリィ
- 息子を想うホーエンハイムの愛情
- 異世界の征服を目論むデートリンデの思惑
などの話が展開。
…いや、詰め込みすぎと突っ込みたくなるぐらいです。尺としては100分少々と普通のアニメーション長編作品程度。その中で色々やろうと欲張りすぎた気がします。
かの黒澤明監督の名作「七人の侍」は200分超えの長尺で、多くの登場人物を過不足なく描写していました。シャンバラを征く者は100分少々でそれをやろうとしたぐらい無謀な試みに思えます。
ウィンリィは成長したエドのオートメイルを持ち歩いていましたが、作中特にエドに執着する様子を見せていないのに、いきなりあのシーンに至るため、どうしても不自然に感じてしまいます。
エンヴィーとホーンハイムに至っては登場から退場までが呆気なさ過ぎてコメントにも困るレベルでした。
見ている間は矢継ぎ早に登場人物たちのドラマが展開し、次々とことが進んでいくため退屈はしません。しかし、見終わってみるとどれも浅く拾っただけで、深掘りされていないものばかりだと気づいてしまうのです。
一貫した兄弟の絆
その中で唯一きちんと描かれていたと言えるのは別々の世界に生きるエドとアルの絆と再会。
(C)荒川弘・HAGAREN THE MOVIE
エドはアニメ最終回にて元の世界に戻るための方法を調査していました。さまざまな文献を読み漁り、専門家の元を訪ねるほど苦心していた彼が、今作の冒頭ではロケット開発への熱が冷め、諦観を露わにしています。
同居人のアルフォンスが「いつも別の世界の話をしている」と心配する一方で、「ここは俺に与えられた地獄なのかな」という台詞をエドは吐く。元の世界に戻りたいという気持ちと、それが叶わないという残酷な現実に消耗しているエド。パラレルワールドの存在を知覚しながらもどうしようもないという部分に、見ているこっちも息苦しさを覚えました。
弟のアルはそんなことはいざ知らず、兄を探すためにアメストリスを旅する。赤いコートを纏い、髪を後ろで結んで、エドの姿を真似ていることから、見て取れる今は亡き兄への思慕。突如現れた謎の鎧兵士に応戦した後に、自らの危険を顧みず異世界に飛ぼうとする姿からもそれは感じ取れます。
奇遇にもトゥーレ教会が送り込んだ鎧は、アルが分け与えた魂を運び、エドとのコンタクトを実現します。再会を遂げた二人は、冒頭のようなコミカルな会話を繰り広げ、アルの鎧の体を活かして窮地を脱します。数年の時と次元を超えて、かつて共に旅した時のように巨大な鎧と小柄なエドが並ぶ様には感慨深いものがあります。見ている側はアルの無事を知ってはいるけど、エドからすればアルの錬成の成否は知りえないのですから、ずっと不安だったに違いありません。安堵したエドには、希望が戻りました。
離れた世界にいてもお互いを想い合う。元いた世界を戦争に巻き込まないためにも、エドはそう決意しますが、アルの純粋な欲求は不幸にも門を繋げてしまうことになります。
焦燥するアルを説得し、共にデートリンデを打ち破った二人は、またしても別れることになってしまいますが、最後にはアルはエドに付いていくという選択をとります。二人が共にいれば、どこにいてもどんな条件でも、同じものを見聞きして生きていける。アルにとっては元いた世界よりも兄との関係を取ったということ。
やや強引な展開ではありましたが、強い兄弟愛には驚かされました。
「別世界のこと」と切り離せないメッセージ
もうひとつこの作品の良かった所は、メッセージ性です。
エドはドイツに来てから、アルフォンスが気を掛けていたように、いつも別の世界のことばかり考えていました。これは裏返すと、今自分がいる世界の事は上の空であり、関わりを持とうとしてはいないということになります。
実際国の技術進歩に大きく寄与できるロケット開発に着手するも、元の世界に帰れないことに気づくと、諦めてしまう。カーニバルに来て準備する時も別の場所で休んでいました。
ハウスホーファー邸にてアルの魂と再会を果たした後に、嬉々とした様子で「元の世界に帰れるかもしれない」と告げ、アルフォンス・ハイデリヒの浮かない顔も気に留める様子はありませんでした。エドと別れる時のアルフォンスの「忘れないで」という言葉は、余命幾ばくもない身でありながら、同居人のエドに深い関心を持たれていなかった寂しさから発せられたのだと思われます。
エドのこの世界への無関心を変える転機となったのはマブゼことフリッツ・ラングとの出会いでしょう。彼は作品の参考材料に大蛇を捕えようとするぐらい映画に熱心な人間でした。なぜ、そこまで映画に入れ込んでいたのか。それは大日本帝国のような単一民族による国家の支配が迫る現実から目を背け、映画の世界に耽溺するため。そうした脅威は放っておけと、彼はきっぱりと諦めていました。
(C)荒川弘・HAGAREN THE MOVIE
エドには、その姿勢を批判されてしまいますが、この二人は「現実世界に関わろうとしない」という点で皮肉にも全く同じ人間なのです。「夢の中に生きるふりをして、本当は夢が現実に侵されるのが怖いんだろ」と吐いた言葉も少し前までのエドにそのまま跳ね返ります。
しかし、エドはフリッツ・ラングの姿を反面教師に、夢を現実に侵させないよう反抗する。強い言葉を浴びせられたラングもまた、夢を守るためにエドに加担する。結局逃避するばかりでは何も変わらないのです。戦争になれば自由に映画を作れなくなるように、自分が浸る世界だって紛れもなくこの世界に属しているのですから。
悲劇を呼んでしまったことを受け入れられず焦燥するアルに、エドは「この戦いは俺たちのせいなんだ」と諭し、生きている限りは誰もがこの世界で起きていることと無関係ではいられないのだと告げます。この映画は、現実を直視していなかったエドが現実と関りを持とうとする過程を描いていると言えるでしょう。
この世界には戦争・犯罪・災害といった種々様々な社会問題があります。あまりに悲惨で、どうしようもなさそうに見える問題には、つい目をそむけたくなるものです。でも、その無関心がさらに事態を悪化させるということが往々にしてあります。
「シャンバラを征く者」で見え隠れする第二次世界大戦にしても、民衆がプロパガンダに流されることで、さらに戦火を拡大させる様相を呈しました。間違った現実ではなく、作り出された夢の世界に流れるほうが人間は楽です。だから、ナショナリズムで自己を確立したり、他人を悪者に仕立て上げ、疎むことで帰属意識を強めたりもする。
(C)荒川弘・HAGAREN THE MOVIE
その感情を振りかざしたのが、デートリンデ・エッカルトです。彼女は、門の向こう側の世界にいる人たちを異物とみなし、殺傷行為を働きます。異世界にいる人間に対する恐怖心が、攻撃を駆り立てる。その行いが現実に間違っていたとしても、自分の感情に従うことほど楽な逃避はありません。
欲を言えば、盛り込みすぎた内容をもっと簡素化して、デートリンデやトゥーレ協会周りの描写に力を入れてほしかったと思います。彼女が門をくぐってからの行いは、現実でも散々起こってきた問題ではありますが、作中では唐突に映ります。人間の恐怖心や楽な方向に溺れる弱さを扱ったのは、とても意義がありますが、ラスボスを倒して強引に収束させてしまうあたりも残念でした。
とはいえ、こういった社会性を持ったメッセージ性を、敢えて少年漫画のハガレンに盛り込んだ作り手の意図は肯定したいです。「主人公たちがオリジナルの敵キャラと戦って平和を取り戻す」という劇場アニメのテンプレートから、敢えて逸らして、観客に驚きを届けた試みは良かったと思います。
まとめ: 作り手の主張が強く出たアニメオリジナルのハガレン
オリジナルに舵を切ったハガレンの映画としては、かなり拘りを感じる内容でした。
「盛り込みすぎてそれぞれの描写が薄い」という致命的な問題点も、作り手の貪欲さを御しきれなかっただけだと思います。
作画のクオリティも高く、戦闘シーンも迫力は抜群。キャラクターの表情は丁寧に描かれており、特にエドの悲しげな表情や憂いを含んだ瞳はけっこう印象に残っています。
観客が求めている展開が素直に来るような王道さはやや欠けており、ちょっとビター結末にも賛否があるのはわかります。原作には全くないパラレルワールドの設定や史実を絡めたストーリーは扱いきれていない部分がありながらも、なんだかんだ嫌いにはなれない、という所で自分の評価はまとまりました。
03年版のハガレンはクセが強いけど、これはこれで良いかもしれません。
ちなみに、この記事を書いている段階では「嘆きの丘(ミロス)の聖なる星」は観ていませんが、こちらもおいおいチェックしてみようと思います。