箒の少年、どこ行った?『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』レビュー【ネタバレ】

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アイキャッチ画像: (C)2019 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.

こんにちは、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』のクライマックスで出てくるあの都合よくオビワンとクワイ=ガン・ジンを隔離した扉が何のための設備なのかわかっていないワタリ(@wataridley)です。

今回はそんな色々な歴史を積み重ねてきた『スター・ウォーズ』(以下、SW)シリーズの全エピソードを締めくくった『スター・ウォーズ エピソード9/スカイウォーカーの夜明け』の感想を書いていきます。

はっきりと結論から言ってしまえば、自分にはかなり肩透かしな作品でした。『エピソード8/最後のジェダイ』で語っていた神話の否定とはなんだったのか、箒を引き寄せるあの少年はいずこへ消えたのか。そう思わずにはいられません。もはや新3部作自体が、商業的な理由から作り出された続編、つまりは「続編のための続編」でしかないと思いました。

以降、ネタバレを含めた感想を書いていきますので、未見の方はご注意ください。


60/100

ワタリ
一言あらすじ「ダークサイドに堕ちたジェダイを呼び戻して悪の皇帝に立ち向かう、どこかで見た話」

わざわざ新3部作を作った意義が危ぶまれる保守的な再演

『SW』と言えば、その名を聞いた者はいないほど、SFというジャンル全体を代表する人気シリーズだ。ビーム状の剣ライトセイバーをはじめ、東洋の価値観を内包したジェダイなる騎士の存在、宇宙空間を颯爽と駆けるミレニアム・ファルコンといったメカニック、一見派手で壮大な宇宙戦争の中で家族やラブロマンスといったミニマムなヒューマンドラマを展開する物語構造など、語るに語り尽くせないほどの魅力を持っている。『SW』は多くのフォロワーを生み、今日の大衆向けのSFでは当たり前になったものの基礎を築き上げた作品だった。

そんな人気作もルーカスフィルムがディズニーの傘下に入ったことで、再び新たな3部作が作られるに至り、この『スカイウォーカーの夜明け』を迎えることになった。

しかし、自分は今作に前向きになることはできなかった。

遡れば、新3部作の嚆矢として世に出た『エピソード7/フォースの覚醒』は、「人気シリーズの復活」という先天的優位性を取っ払ってみると、内容そのものはキャラクターの紹介と物語のほんの起こりを描いているに過ぎない。

続く『エピソード8/最後のジェダイ』では、これまでのシリーズを総括し、新時代の話に塗り替えようとする問題提起がなされたものの、脚本の粗が目立ち、結果的に賛否が激しく割れる作品となっていた。ただ、新3部作が掲げる理念は、十分に納得できるものだったし、中間作でうまくいかなかった問題は最終作でリベンジしてくれればよい。それが、当時の自分の感想だった。

ところが蓋を開けてみれば、新3部作の理念に疑いを向けざるを得ない事態が起こる。

発表されたタイトルがここにきて『スカイウォーカーの夜明け』である。

『最後のジェダイ』においては、ルーク・スカイウォーカーにジェダイの精神性が受け継がれていくこと、すなわち「最後のジェダイ」が自分ではないことを語らせ、またサイドクエストにおいて銃後の人たるローズ・ティコと脱走兵のフィンを中心とした名も無き者たちの奮闘を描いていた。何より同作のテーマを象徴していたのが、レイの素性という新3部作最大のミステリーに対する我々の期待を裏切り、名も無き者として着地させた展開だ。これにより、新3部作は、スカイウォーカーという天上人の神話を解き放ち、我々の物語にしようとしているのだと解釈することができた。

つまり「スカイウォーカー」という言葉は、『最後のジェダイ』を経た時点で、古びたニュアンスを帯びており、そこに「夜明け」という神話の締めくくりとでも言いたげな暗喩が加わることで、「もしや先祖返りするのでは?」という嫌な予感(bad feeling)を抱かずにはいられなくなったわけだ。

それでも一縷の希望は残されていた。「スカイウォーカー」も、「夜明け」も、きっとそうした憂慮を飛び越え、『最後のジェダイ』で提示したテーマを更に昇華させた結果に訪れる高度な「何か」を意味する言葉なのだろう、と。

しかしながら、『スカイウォーカーの夜明け』は何もかもが想定の範囲に収まってしまった。タイトルを聞いた時の嫌な予感はそのまま的中してしまったのである。

 

レイの正体はスカイウォーカー神話の否定になり得ない

今作最大の種明かしは、「レイがパルパティーンの孫だった」という真実であり、これを支点に血統主義の否定を論じたかったのではないかと思われる。

しかし、この事実は『最後のジェダイ』のテーマと真っ向から矛盾している。しかも、むしろ血統主義そのものだとさえ思える。どう考えても、レイは名も無き者であったままの方が、前作からの流れを受け継ぎつつ、新たな3部作を作った意義も生じていたはずだ。

昨今では、血統主義の否定というのは、ひとつのトレンドである。「百姓の子は百姓」といった生まれながらにして親や家柄によってその子の生き方が決定されてしまうというのは、封建時代の悪しき風習とされるようになった。新自由主義の時代では各々が自らの意思で職業選択を行い、ひいてはそれが社会全体の分業体制を促進し、生産性も向上する…。今日の資本主義国は、そんな青地図を思い描いていた。

しかし、現実は経済格差が広まるばかりで、持たざる者は自らの肉体を資本に労働に従事する他ない傍ら、持てる者は資本を投下して金を稼ぐという景色が繰り広げられている。教育に至っては、一見当人の努力次第で将来の選択肢を増やせるように見えて、実際には裕福な家庭がごぞって我が子の学習環境を整えられる格差がある。裕福な家庭に生まれた子は、4年制大学への進学、大企業への就職をベルトコンベア式に達成するが、貧しい家庭の子は基礎条件から不利を強いらている図式を指して、格差再生産の温床とみなされることすらある。

それだけに、理想論であったとしても、作り手がこうした問題に立ち向かう意図は理解できる。夢がない時代にこそ夢は必要なのだ。

ただ、今作におけるレイの血筋をめぐる描き方は、いっこうに過去作からアップデートされたとは言い難いものだった。

パルパティーンの血を継いでいるから、強大なフォースの力を秘めていたというのは、紛れもない血統の産物である。今作のレイは、その制御不能なフォースに恐れを感じ、葛藤の中でチューバッカやベン・ソロを殺傷し(前者は誤解だったが)、動揺する。かように本人の意図しない内に暴走する力というのは、それこそ遺伝子レベルで先天的に備わっているからという理由づけが背後にはある。結局のところ、レイは自らの特性を自ら選んだわけでもなく、封建制にあるような親から子への世襲によってフォースを獲得したに過ぎないのだ。

最終的にパルパティーンに立ち向かうことができたのも、「ベンがスカイウォーカーの血を、レイがパルパティーンの血を継いでいたから」という身も蓋もない理由であり、そこに我々観客が積極的に参与できる隙間は存在しない。

しまいには、クライマックスにおいてファミリーネームを問われたレイは、「スカイウォーカー」の姓を名乗る。

「レイ・パルパティーン」の代わりに「レイ・スカイウォーカー」と名乗らせた意図自体は、スカイウォーカーの精神性がレイに受け継がれたことを示唆したかったのだと思われるが、これによって「パルパティーン」という血は、除け者にされてしまっているではないか。一見、「血を超えて継承できる話」だと思わせているが、一方では「忌み嫌うべき血」としてパルパティーンを描いてしまったがために、「悪の血はどこまでいっても悪」という実に旧態依然とした結末にも取れてしまう。パルパティーン(悪)の血を継ぎながらレイを救った両親も、スカイウォーカーを名乗る行為によって亡き者にされており、更に焦ったい思いに駆られる。

このように、今作は血統の否定を描いたと見せかけているだけで、実際には逃れられていない。パルパティーンの血を継ぐレイが平和をもたらしただけでは、結局のところ、『最後のジェダイ』が崩そうとしていた神話の域を出ないのだ。

そもそもの話、このレベルの血統の否定であれば、既にアナキンとルークがやっている話である。

かつて、アナキン・スカイウォーカーは、命の危険が迫るパドメを救いたいという精神的な弱みをパルパティーンに付け込まれ、「フォースにバランスをもたらす予言の子」という己が運命を外れてしまう。ダース・ヴェイダーと化した彼は、皇帝に勝つため、息子を引き入れようとするが、ルークは暗黒面への誘惑を断ち切り、父をライトサイドに帰還させる。この『ジェダイの帰還』までのエピソードが、既に「生まれながらにして与えられた運命の否定」と、「父殺し」を描いているのだ。

つまり、これまでのサーガで既にやったことを新3部作は多少のアレンジを加えて再演しただけ、とも言えてしまうことになる。そうなると、いよいよ既に終わっていたシリーズを再開して、正史として描いた意義が危ぶまれる。

また、別の問題として、今作で明かされるレイの正体が、あまりに取ってつけたような印象を与える描き方になっているのも気がかりだった。前作までの彼女は、その突如として目覚めたフォースに戸惑いながらも、彼女自身が生まれながらダークサイドだというニュアンスで、その葛藤がなされる描写は皆無だった。それが今作では、輸送船の爆破から始まり、仲間を置き去りにして先へ進むような焦燥、ベンの殺害未遂といった葛藤が急速に進んでいくため、まるで「パルパティーンの孫」という設定に辻褄を合わせるかのようで不自然だった。

 

露骨に続編のために駆り出されるパルパティーン

パルパティーンが実は生きていた。この真実の是非をさて置くとしても、なぜ彼が生きているのか、その理由は明示されない。曰く、「フォースに不可能なことはない」というが、それなら今作で死んだ後も復活する可能性があり得るということではないか。

そもそも彼が復活した理由は、大方、続編を片付けるための黒幕として、またかねてからのファンに向けたサプライズとして適任だからであろう。だから、復活したロジックは曖昧にするし、そもそも彼が復活して成し遂げたかったこともまるで薄っぺらなのだ。「レイに自らを殺させてダークサイドの女帝にする」と言った後には、「レイとベンという絆から力を得て復活」という一貫性のなさ故に、悪としての魅力も矜持も感じられない。

しかし、それ以上に問題なのは「パルパティーンが実は生きていた」とすることで、それまでのスカイウォーカー家の戦争が途端に徒労のニュアンスを帯び始めてしまうことだ。父を呼び戻し銀河を救ったルーク、命を賭して息子を守ためにライトサイドに帰還したアナキン、そして反乱軍の決死の奮闘の裏側で、皇帝は次の駒を密かに進めていたのなら、オリジナル3部作は言い逃れようもなく「仮初の平和を手にする話」に矮小化される。

そもそも『フォースの覚醒』の時点で、「ファースト・オーダー」なる巨大な軍勢が再び銀河を脅かしていた段階から始まっていたわけだが、これについては何か算段があるのだろうという気持ちで許容していた。そもそも「『SW』の新作を作る」時点で必然的に脅威は需要されるからだ。しかし、その元凶が皇帝だったとするのなら、浅はかな脚本だと指摘せざるを得ない。

パルパティーンは今作で続編のために駆り出されたとしか言いようがない。だから、根本的な問題は何も解決しておらず、結局また必要とあらば復活できる余地を残している。そうなってくるとこの新3部作自体何だったのか?となるのである。

 

どこかで見たような光景の連続、SFらしからぬ凡庸なビジュアル

かくして保守に回っている今作には、映像面におけるクリエイティヴィティまでもが感じられない。曲がりなりにも常に技術的なチャレンジや、他にはない斬新なSF要素で観客を楽しませてくれた『SW』らしからぬ作りになっている。

映画全体を見回してみると、過去作のオマージュ、引用、模倣に満ちており、今更新しいと思える要素が不足している。X-ウイングを引き上げるルーク、ハン・ソロの“I know”、エンドアの再登場、ポッドレースじみた荒野でのチェイス、ダークサイドから復活したジェダイ&ライトサイドのジェダイVS皇帝という構図等、作り手から観客への目配せは、枚挙にいとまがない。しかし、それらの模倣の大半には付加価値をつけるような創意工夫はなく、単に旧世代の遺物を間借りしただけのコピーに映る。

今作で登場する惑星も、シリーズで何度も見せられた荒涼とした砂漠、毎度セキュリティが甘く侵入を許してしまうお馴染みの敵艦隊内がまたしても出てくるが、過去作とは異なる角度から撮られているというわけにも思えず、マンネリズムの極地に至っている。新しく出てきたポーの故郷の星も「雪が降る集合住宅地」というセンスオブワンダーを感じない凡庸な絵面に終始している。

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しかも、肝心のラストステージであるエクセゴルは、アップの絵が多すぎて全体像が掴めない上に、暗くて細部がよくわからない有様だ。恐らくここでシリーズ随一のスケールで戦争が行われたはずなのに、この惑星が具体的にどんな景色で、敵の艦隊の大きさはどれほどなのか、最後まで印象的な決め絵もないまま、「暗所で踏ん張って前進するレイ」という驚きも何もない絵で決着をつけてしまう。

思えば、プリクエル3部作のライトセイバーデュエルに対して、現実離れした動きを織り交ぜた大仰なアクション描写に賛否の声があったが、それはチャレンジの証としてまだ楽しめた。それと比較して今作は、ライトセイバーのアクションシーンは、最も尺を取っていたエンドアの戦いにおいても、剣を振るう人物のバストショットと2人を捉えたロングショットを単調に繰り返すばかりで、鮮烈なインパクトを残すチャンバラになり得ていない。仕舞いには、上記のようなどこかで見た様な絵に壮大なサーガの決着を託してしまう。

 

最終作とは思えない不必要な緩さ

他にも演出や編集が無駄に間延びしている部分も散見される。生きるか死ぬかの瀬戸際にレイに意味深に何かを告げようとしたフィンの胸中が、ポーの軽い横槍で無かったかのような扱いを受けてフェードアウトする一連の流れは、一体何だったのか。

また、レイの力の暴走により死んだチューバッカをめぐってさめざめと落胆する描写を見せておきながら別の輸送船だったという間抜けなオチを見せるが、それにしては不釣り合いな時間を取って、本筋を停滞させる。そもそも、あのひとっこ1人すら目立つ程何もない荒野で、どうやってフィンは輸送船を見間違えたんだという根本的な疑問も浮かんでくる始末。

あれだけ「感動的な別れ」を演出しておいてあっさりメモリー修復されるC3POのエピソードも丸ごと不要にしか思えない。振り返ってみればあのシーンが、レイ自身の葛藤や対ファイナル・オーダーとの戦争に少しでも寄与しただろうか?

ただでさえ最終作でやることが多いのに、これらの薄っぺらなシーンに時間を割いている。単なるユーモアですらない、完全なる無駄だ。

『スーパー8』や『フォースの覚醒』など、影響を受けた過去作品へのリスペクトやオマージュを基調とした氏の作風は、良く言えば当たり障りがなく、シリーズの出だしとして期待を煽るのには十分だったかもしれない。ただ、膨らんだ期待に応えなくてはならない今作にとって、映像・演出面の牽引力の不足は、致命的だと思う。

 

役割が迷走する新3部作のキャラクター達

プリクエル3部作がアナキン、オビ=ワン、パドメ、オリジナル3部作がルーク、レイア、ハン・ソロ、そしてダース・ヴェイダーを中心に置いたドラマだったとすれば、新3部作はレイとカイロ・レン(ベン・ソロ)の2人を中心としたドラマだったと結論づけられる。

しかし、終わってみると何のために配置されたのかわからないキャラクターも多数いる。

その筆頭が、ストームトルーパーだったがファースト・オーダーの暴虐に罪悪感を覚えて脱走兵となったフィンだ。『フォースの覚醒』では、彼とレイの出会いが物語を始動させ、不思議な絆でも存在しているのかと思わせる節もあった。また、ジェダイではない人間が、シリーズ史上初めてライトセイバーで戦うという展開を見た時には、それこそ「名も無き者の活躍」を描いてくれるのではないかという期待があった。

しかし、結果的にこれらは、どれも煮え切らないまま、新3部作は終わってしまった。フィンは『フォースの覚醒』以降、レイとの関係性に何ら決定的な変化は訪れておらず、専らサイドクエストの遂行役となる。そこで3作通して一貫したドラマがあればよいのだが、それもない。そのくせ、バディを毎作取っ替え引っ替えした結果、どの登場人物とどういう関係に落ち着いたのか不明瞭だ。『最後のジェダイ』でキスまでしたローズとは一体どうなったのか。フィンにとっての元上司であるファズマも、フィンの行動に何ら影響を及ぼさないまま出番終了とは思わなかった。

『フォースの覚醒』でそのフィンをジャクーに連れて行った影の立役者たるポー・ダメロンも、これといったバックボーンが描かれずに最終作に突入してしまった。単なる反乱軍パイロットの代表キャラクター程度ならそれでよかったのが、この最終作で急に過去を語り始める。最終決戦前に唐突にかつての旧友や故郷を出されても、こっちとしては何ら思い入れもないので、取ってつけたようなキャラ付けにしか思えなかった。

このレイ、フィン、ポーという並びは、仮にも同じ敵に立ち向かう仲間なのに、特に連帯感を見せてくれるエピソードがないまま、最終作に至ってしまったのはかなり手痛い。今作でやっと3人揃って旅をするが、しかしそれも胸に迫るドラマがあったかと言えば微妙なところだ。

ただでさえ、既存のキャラの掘り下げも十分ではない中で、脱走兵のジャナやプライド将軍といった新キャラを更に投入してくるが、案の定主体的な物語がない。したがって好きになりようもない。D-Oに至っては完全にご都合主義のための舞台装置である。その傍らで、ハックス将軍を雑に処理しているものだから、機械的に役割を持たせたキャラクターを生成しているようにしか見えないのだ。

見た目上、新世代のキャラクターを後押しするために再登板したルーク達にも思うところはある。ルークからレイへの継承は『帝国の逆襲』のヨーダとルークの比にならないほどに希薄だったし、ハン・ソロ、レイアもレイ達との関係が煮詰まらない内に退場してしまった気がしてくる。3人ともレイとカイロ・レンに従属するレベルのドラマしかなかったため、「新3部作のキャラをお膳立てするために過去の遺産を使った」と取られても仕方ない。彼らの犠牲の上に、成り立つ物語に相応のメッセージがあればよかった。しかし、多幸感に満ちた『ジェダイの帰還』のラストを無しにしてやったことが『ジェダイの帰還』の再演なのだから、これでどう納得すればよいというのか。

 

カイロ・レンがもたらしたスカイウォーカー家の終焉

新3部作を総括して、白眉だと言えるのはアダム・ドライバー演じたカイロ・レンという人物が担う役割だ。

『最後のジェダイ』でその目的が決定付けられたように、彼は自分の意思とは関係なくスカイウォーカーの血を受け継いでしまった存在であり、スカイウォーカーの歴史に翻弄されている点において、『SW』の在り方そのものを象徴している。それだけに、メタ視点から俯瞰してみると、興味深いキャラクターであり、呪われた彼がいかにして呪縛を解くのか?については最終作最大の関心ごとのひとつだった。

アダム・ドライバー自身の、黒衣が似合う大柄な体躯と、マスクの下に見える不安を宿した顔つきのギャップは、彼がどう転んでいくのかをまるで読ませない危うさを体現しているかのようだった。年齢的には大の大人と言っていい彼が、父親を前にした際には、傷だらけの仔犬じみた哀傷を露わにする様子には、憐憫を抱かずにはいられなかった。

そんなレンが、今作ではスカイウォーカーの負の連鎖を終わらせる。常にライトサイドに引き戻そうとしてくるレイと、ダークサイドに引き入れようとするレンの対決は、レイアの呼び掛けによって、レイの勝利に終わる。レイに傷口を修復され、記憶の中の父と再会したレンは、自分のために尽力してくれたレイを救うべくエクセゴルに着の身着のまま駆けつける。そして、パルパティーンとの決戦が終わった後、彼は力尽きたレイを自らのフォースで蘇らせる。

かつて、アナキン・スカイウォーカーはパドメを救いたい心をつけ込まれ、ダークサイドに堕ちてしまった。それが彼女を失意の死に追いやる結果を生んでしまう悲劇をもたらした。その息子ルークは、ダークサイドに堕ちた父をかつてのジェダイとして呼び戻すことに成功する。だが、その再会は一時的なもので、第2デススターが崩れゆく中、ルークはアナキンに今生の別れを告げる。

そうしたスカイウォーカーの系譜を打ち破り、ベン・ソロは唯一愛する者の命を救うことができたことになる。

「愛する者を救うことができない」というスカイウォーカー家の負の物語を終わらせたベンは、引き換えに自らの命を落とし、スカイウォーカーの血がこれにて途絶えることになる。この結末では、『フォースの覚醒』でレンがヴェイダーのマスクに誓っていた「あなたが始めたことを私が終わらせる(I will finish what you started.)」の意味が全く別のものに変質していることに気づく。それは銀河を支配することではなく、愛する者を救うこと。その達成と共にスカイウォーカーはレイに受け継がれた概念となった。

今作の『スカイウォーカーの夜明け(The Rise Of Skywalker)』という題には、ベン・ソロが悲劇を食い止め、スカイウォーカーの歴史にようやく光が灯る様を、レイという第三者から捉えさせた様を言い得たのだと思えば、たしかにしっくりと来る。

ベンのドラマが描く、過去作の総括は静かながら確実に意味があるものだ。それだけにレイをめぐるドラマを中心に物語の構図が、過去作の模倣の域を出ないのが残念でならない。

 

まとめ: 『SW』神話の終わり、『SW』大衆文化の始まり

そもそもの話として、『SW』はルーク・スカイウォーカーを主役とした『エピソード4/新たなる希望』『エピソード5/帝国の逆襲』『エピソード6/ジェダイの帰還』からなるオリジナル3部作で一旦完結している話だった。

しかし、生みの親であるジョージ・ルーカスがスティーヴン・スピルバーグ監督作『ジュラシック・パーク』を目にして、技術的な問題をクリアできると踏んで、『新たなる希望』よりも前、ルークの父アナキンを主役とした通称プリクエル3部作を作る決意をしたという。『エピソード1/ファントム・メナス』『エピソード2/クローンの攻撃』『エピソード3/シスの復讐』は、オリジナルのファンからも賛否ある作品で、必ずしも受け入れられたわけではないものの、オリジナルで伝聞することしかできなかったアナキンの過去とジェダイ全盛の時代を形にする目的が存在した。

そこにきて、作った意義が全く見出せない新3部作は、『SW』のサーガとして素直に数えるのに抵抗がある。『最後のジェダイ』で期待させたシリーズの普遍化は成し遂げられず、ベン・ソロの顛末を除いては、ただ歴史を繰り返しただけだ。一体、夜空に輝くミレニアムファルコンを眺めて箒を引き寄せた少年はどこに行ってしまったのか。そんな落胆が残る最終作だった。

そもそも『SW』という作品は、その時代の革新を狙う精神性が根底にあるSF大作ではなかったのだろうか。ディズニーが作った新3部作は、キャストの人種も多様化し、女性主人公レイを立てたキャスト以外は、旧いものを持ち前の資金で再現しただけに思える。それは果たして『SW』と言えるのか。

だが、物語にこそ意義は感じられなかったものの、商業主義的にはこれが正しいのではないかとも思えてくる。今となっては、「更新が止まった過去の人気映画シリーズ」だった『SW』が「定期的に新作が公開される現在進行のコンテンツ」となり、今後もディズニーの傘下で『マンダロリアン』を皮切りに新作が供給され続けるプランだ。過去には生みの親であるジョージ・ルーカスさえもファンから批判の的になっていた『SW』という聖域を、卑近の領域に引きずり出した点において、ディズニーの目論見は成功したと言えるのかもしれない。もちろん、原理主義者からは猛反発を喰らわざるを得ないわけだが、MCUに並び得るビジネスの代償としては安いものだろう。

果たして、将来『SW』が更なる成長を遂げ、自分が新3部作に抱く不満を覆すほどのソフトパワーを取り戻すことはできるのか。今となっては前向きに期待はしていないが、思い入れのあるシリーズであるが故に、頭の片隅には留めておかざるを得ないのだから悔しいものだ。

 

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▼ライアン・ジョンソンが仕掛けた『SW』の普遍化『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』

▼同年公開となったマーベル・シネマティック・ユニバース11年の集大成『アベンジャーズ/エンドゲーム』

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1 個のコメント

  • レイが孫って言うのは必要な設定なのかなとは思いました。
    ただ、ジェダイの期間以降を書いた本だとパルパティーンは身体変えながら生きながらえてたから出てきても「やっぱり死んでないんだ」くらいにしか思わなかったです。

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