『未来のミライ』は1人の少年を通して、ありふれた奇跡とまだ見ぬ未来を描くはずだった。【ネタバレ】

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こんにちは、最近ワイヤレスイヤホンを買って有線イヤホンには戻れなくなったワタリ(@wataridley)です。

今回は、公開から日が経ってしまいましたが細田守最新作「未来のミライ」をレビュー。

「サマーウォーズ」以降、細田守監督がフォーカスしてきた家族の物語とあって、楽しみにしていたと同時に、身構えていた部分もありました。

というのも、細田守作品と自分はあまり相性が良くないことを自覚していたからです。

前作「バケモノの子」では、前半と後半の落差といった明らかな脚本の欠点と相まって、アレルギー反応のような反発を覚えたことが記憶に鮮明に残っています。

ただ、こうした個人感情と裏腹に期待してもいました。彼は、今の日本のアニメーション界で評価と興行を両立させている数少ないうちの1人であることに違いないからです。Twitterで宣伝に用いられていた「#細田守の夏がやってくる」というタグは、大衆の期待感を象徴しているように感じました。

さて、実際に作品を観て抱いた私感はといいますと、実に表現し難い映画になっているというのがまず第一に来ました。

確かに「家族」の一語でまとまる物語ではあります。

しかし、短編が連続するこの物語は、異なる色の布が異なる糸で粗く縫い合わされたような出来になっているのです。見る側にはその縫い目が意識せずとも見えてしまいます。

これは意図したものなのか、はたまた単なる粗なのか。

その個人的な解釈と感想をネタバレ交じりに述べていきますので、よろしければお付き合いください。


60/100

ワタリ
一言あらすじ「くんちゃんがいろいろな体験をする話」

今作を構成する6つのエピソード

宣伝で流れていたあらすじは以下の通り。

とある都会の片隅の、小さな庭に小さな木の生えた小さな家。

ある日、甘えん坊の“くんちゃん”に、生まれたばかりの妹がやってきます。

両親の愛情を奪われ、初めての経験の連続に戸惑うばかり。

そんな時、“くんちゃん”はその庭で自分のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ、不思議な少女“ミライちゃん”と出会います。

“ミライちゃん”に導かれ、時をこえた家族の物語へと旅立つ“くんちゃん”。

それは、小さなお兄ちゃんの大きな冒険の始まりでした。

待ち受ける見たこともない世界。

むかし王子だったと名乗る謎の男。

幼い頃の母との不思議な体験。

父の面影を宿す青年との出会い。

そして、初めて知る「家族の愛」の形。

さまざまな冒険を経て、ささやかな成長を遂げていく“くんちゃん”。

果たして、“くんちゃん”が最後にたどり着いた場所とは?

“ミライちゃん”がやってきた本当の理由とは―

それは過去から未来へ繋がる、家族と命の物語。

(「未来のミライ」公式サイト|ストーリーより引用)

(C)2018 スタジオ地図

あらすじを読むと、おそらく誰もが「ははあ、これは未来からやってきた妹のミライとバディを組んで冒険をし、紆余曲折を経てくんちゃんが兄として成長する物語なんだな」といったんは納得します。

そして本編を観てみると、「肝心のミライちゃんの出番が少ない」という問題を除けば、概ねあらすじ通りに進行していました。

しかし、見終わってみると、釈然としない感情が沸々と芽生えてきました。

映画の諸要素は大局的にはひとつの物語になっているんだろうという予想が裏切られてしまったからです。

今作はショートストーリーを連続させ、話にオチがついたらそのシーンを断つという方法で、場面転換しています。暗転を話の切れ間と判断すると、今作の話は以下の通りです。

  • くんちゃんがミライちゃんと出会うプロローグ
  • 新しく家にやってきた妹に嫉妬をしたくんちゃんが“王子様”を名乗る男と出会う話
  • 未来からやってきたミライちゃんと出会い、お父さんに隠れて雛人形の片付けに奔走する話
  • 子供時代のお母さんと出会い、彼女の境遇を聞き、一緒にはしゃぎ回る話
  • 自転車に乗れるようもがいていた時、謎の青年と出会い、恐怖心に打ち勝つ術を知る話
  • 東京駅の形をした不思議な世界に入り込み、そこで家族の大切さに気付くエピローグ

これら6つのエピソードそれぞれの中に起承転結の流れがあります。

例えばプロローグでは、ガラスに息を吹きかけて母親を待ちわびるくんちゃんから話が起こり、おばあちゃんから承った雪に興味を示し、新しい赤ちゃんがやってきて事が転じ、初めて会う妹に好奇心を示すところで結んでいます。ショートストーリーとして見ると、教科書になぞったと思えるぐらいに形式的なのです。

しかし、映画全体をひとつの話として捉えた際、今作は起承転結のような段取りを感じづらい作りになってしまっています。

特に結末部分におけるつかみどころのない不明瞭な演出、あまりに直接的なテーマの語りとそれまでの展開との矛盾が、この作品全体の完成度や落としてしまっているように思いました。

パズルのピースを着実に配置し、あと少しできれいに完成、というところで歪な形のピースを無理やりにはめ込んでしまったかのようです。

これから、ピースをひとつひとつ振り返ります。

 

赤ちゃんとの出会い

初めて赤ちゃんを目にする場面は静的な演出が光っていました。

ガラスを曇らせ、いちいちそれを拭うという行為にはくんちゃんが、母親を待ちわびていることを幼さ混ざりに表現しています。くんちゃんがレールの玩具を飛び越えようと体をややぐらつかせる動きといい、上半身をぶらす不安定な様といい、アニメーションで再現される小さな子に初っ端から惚れ惚れとしました。

このシークエンスで最も自分の琴線に触れたのが、初めて妹を目に留めるくんちゃんの表情です。

その直前、お婆ちゃんに言われたように中庭でゆっこと遊んでいたくんちゃんは、空から降り注ぐ雪に好奇心を示していました。

掴もうとしても掴めない白い結晶。

子どもにとってこれほど神秘的なものはないでしょう。

そして、初めてやってきた妹を見る目は雪を見るそれ以上に真っ直ぐでした。赤子の手におそるおそる触れる様子も見入りました。それまでの大げさな動きは見る影もなく、動と静のコントラストが見事でした。

作文や論文を書く際のテクニックとして最初の一文は相手の興味を呼び起こす語句を入れるように、映画も掴みは非常に大事です。その意味でも「未来のミライ」の幕開けは良かったと思います。

 

くんちゃんの嫉妬とゆっこの気持ち

初めてできた赤ちゃんにつきっきりの両親。構ってもらえないくんちゃん。

忙しない様子を軽やかにコミカルに映していく描写力にも舌を巻きました。

インクレディブル・ファミリーの乾燥にも書いたように、アニメーションにおける人間の描写はとても難しいです。特に家庭風景を現実そのまま絵に描き起こしてしまうと、登場人物の気苦労の生々しさが肥大化して観客に伝わってくる恐れもあります。アニメーションは用法次第では現実以上に現実の事象を誇張できる表現媒体なのです。

今作では、子育てにおける生々しさは抑えられ、くんちゃんやミライちゃんの可愛らしさやドタバタにあたふためくお父さんの可笑しさといったものが、見る側を引きつける要素になっていました。(それに比べるとお母さんに関してはコミカルさ控えめでしっかり者な面が目立っていますが、これについては後ほど触れます。)

(C)2018 スタジオ地図

何作もヒット作を生み出してきた細田守の手にかかっているためか、アニメーションにおけるデフォルメ化の塩梅はやはり非常に優れています。お父さんが慣れない家事と育児に追われるシーンを家の段差によって下へ下へと流していく見応えあるシーンに代表されるように、演出方面では他の追従を許さないぐらいのパワーを感じました。

また、星野源が演じたおかげなのか、お父さんの甲斐性のなさにもやたらと説得力があるような気もします。それでいて単なるダメな父親ではなく、底にはお人好しな気質を感じさせるのだから、見ていて悪い気はしません。お母さんには「他のお母さん達の前ではいい父親ぶる」と言われてしまっていたけれど、多分企みをもってそうしているというより、本人も自覚がない天然気質なのだと思います。

ミライちゃんに悪戯をして、お母さんにこっぴどく叱られたくんちゃんが外へ出ると、ここで始めて庭での不可思議な現象に立ち会いました。

庭は廃墟のような場所に変わり、ゆっこが人の姿となって目の前に現れ、くんちゃんに嫉妬という感情を教えました。

ここでくんちゃんはゆっこの尻尾を引き抜いて、犬の姿となり、家内を駆け回っていましたが、この時両親からはゆっこと認識されていました。庭の不思議な力故なのか、くんちゃんは「ミライちゃんのお兄ちゃんじゃない」という感情に身を委ね、ゆっこに成り替わることで内に抱えていた重圧感から解放されているようでした。

そうしてその日の夜、ゆっこの気持ちを理解したくんちゃんは、彼の代わりにドッグフードをねだってあげていました。

ゆっことの出会いは、くんちゃんが相手の気持ちを理解して思いを汲んであげるという行動が、ちょっぴりの成長として描かれるまでのエピソードでした。

(C)2018 スタジオ地図

 

未来のミライちゃんと共同戦線

お母さんが仕事明けで家を留守にし、お父さんが子守をしていた日、くんちゃんは未来からやってきたミライちゃんと出会い、婚期が遅れぬようにと雛人形のお片付けに奮闘します。

コメディタッチの作風が一段と強いエピソードであり、あまりくんちゃんの心理に影響を与えてはいないようです。妹に悪戯をし「好きくない」と言っていたくんちゃんは、話の最後にミライちゃんに「好きくなった?」と尋ねられた際には、少し考え込む様子を見せていたのが多少の変化でしょうか。

話の中では、ゆっこが「未来のミライちゃんと赤ちゃんのミライちゃんは同時に存在できない」というルールを推察していたり、ゆっこ達はお父さんに視認されてはならないといった暗黙的な決まりが示唆しれてはいましたが、後半部分で特に役に立つといったことはありませんでした。

特に肩透かしだったのが、ミライちゃんの手にある痣が「いきなり現れた謎の少女がミライちゃんと同一人物である」というここでの証明書程度で留まってしまっていたことです。

このエピソードは、未来からの客人と初めて出会う奇異な体験やお父さんの目を盗んで共同作業をするといった表面的なドタバタ劇に終始しており、良く言えば頭を空っぽにして楽しめる展開でした。

 

お母さんもくんちゃんとおんなじだった過去を知る

仕事が出来て、お父さんにもはっきりした物言いをするお母さん。観客の自分にも、強かなしっかり者に映ります。冒頭帰ってきたところを抱きつきに行ったように、幼きくんちゃんにとっては側にいてくれると安心する存在です。

なるべくくんちゃんに良い子に育って欲しいという願いを持っており、くんちゃんに怒ってしまったあと、自身を省みるワンシーンからは、なるべく良き親でいたいという気持ちが垣間見えます。

親は、子どもが生まれた時点ですでに肉体的に成熟しています。精神的にも立場的にも優位であるために、子どもは親や大人からの言葉をとても深刻に受け止めることもあります。

くんちゃんが自分は「可愛くない」と言ってしまう気持ちは、痛いほどに伝わってきます。たとえ親から受けたのが愛のムチであったとしても、子どもはそれによって傷ついてしまうこともあるのです。

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しかし、親も元はといえば子ども。我が子を叱りつける一方的な存在ではなく、かつては叱りつけられ、大人になっていったのです。

(C)2018 スタジオ地図

強大なお母さんから否定されたと思い込み、塞ぎ込んでしまったくんちゃんは、幼少期のお母さんと出会い、境遇を聞かされます。

お母さんもくんちゃんと同じ、目下の弟がいて、「親から愛されている自分」を精神の拠り所としているのでした。

怒った時は鬼ババのようだとくんちゃんが揶揄するお母さんも、実はくんちゃんと同じように小さい頃は親にこっぴどく叱られることもあるのでした。

一緒にお菓子を食べたり、家中をちらかしまくったり、欲しいものをおねだりする姿を見たりした後には、くんちゃんはお母さんは最初からお母さんだったのではなく、自分と同じ子どもだったということを実感します。

それにしても、散らかっていた方が楽しい!とはしゃぐお母さんとくんちゃんにはとても強い共感を覚えました。自分も幼少のころは、布団を被って暴れたり、家を転げ回ったりするのが大好きでしたし、それをアニメで子どもらしさを演出する要素に仕立てた着眼点と観察眼には感心しました。

くんちゃんはそんなふうにして、お母さんも自分と同じだと気づいて、優しさを分けてあげられるようになっていました。涙を浮かべながら寝ていたお母さんの頭を撫でていたくんちゃんの姿が印象的です。

家族のあり方は家族の数だけあることでしょう。しかし、このように親と子どもって同じような悪戯をして遊んでいたり、同じような駄々をこねて親を困らせたりするというのはどの家庭でも起こるのです。

家族というものが外面では変化しながらも、ある部分では同じことを繰り返しながら続いているといううねりを少なからず意識させられました。

 

ひいじいじと出会い、未来に憧れるくんちゃん

お母さんの幼少期と同じく、過去にタイムスリップするひいじいじとのお話は、くんちゃんの心理にもたらす効果がまるで逆になっていて、興味深いです。

お母さんとのエピソードは彼女の過去に迫り、くんちゃんに過去時制の概念をもたらしていたと言えます。

他方、このひいじいじとの話を通じて、くんちゃんは未来への憧れを知るのです。

「何事にも最初はある」。

くんちゃんはこの言葉を否定し、「今」自分が自転車に乗れず、悔しい思いをしたという激情に身を委ねていました。この時のくんちゃんには、未来が見えていません。

だから、乗れるようになるといったポジティブな考え方を棄て、庭へと飛び出してヘルメットを投げ出してしまったのです。

(C)2018 スタジオ地図

見知らぬ整備工場で知り合った青年に馬とバイクに乗せてもらい、爽やかで気持ちの良い景色を見せてもらいました。そんな体験を与えてくれた青年もまたお父さんと同じように「何事にも最初はある」と口にしていました。

この言葉には、最初を通過すれば、どんどん将来が拡張していく可能性を含んでいます。「どんな乗り物もコツは同じ。ひとつ乗れるようになれば馬にも船にも乗れるようになる」という言葉の通り、最初に大変な思いをした先は、どんどんまた別のことへと繋がっていくのです。

黄昏時の穏やかで眩しい光が、このシーンを味わい深いものにしていましたし、福山雅治の耳当たりの良い声がとても頼もしく響きます。

最後、飛行機が空を悠々と飛ぶのを映すことで、自転車に乗れるようになる小さな一歩が壮大なものの一歩になるかもしれないという含みを持たせているようにも感じました。

青年からのレクチャーもあって、補助輪なしで自転車に乗れるようにくんちゃんは、遠くを見るようになりました。これは、今という足元だけではなく、遠くという未来を見渡すことのできるようになった成長を示しています。

くんちゃんの成長を見届け、「子供っていつのまにか成長する」と涙ぐみながら語るお父さんにも思うところがあります。おっしゃる通り、子供は親の預かり知らぬところで、何かに出くわし、そこから学び取るものです。

でも、お父さんが何もしていなかったかというと、そういうわけでもありません。お父さんが見守ってくれたから、くんちゃんは自転車に乗る練習に臨めましたし、自転車に乗る年上のお兄ちゃんたちのように、何かを達成した時に立ち会ってくれる人の存在もまたたいせつなのです。

ここまで、思いのほか未来のミライちゃんの出番は少なく、むしろ過去と現在を舞台にする物語となっていますが、そんなことは瑣末なことです。

くんちゃんというちっぽけな子どもに焦点を当て、彼の成長が自分にとって大きなものとして感じられる映画になっています。まさに我が子を見守るような気分でした。

ここまでは順調でした。そう、ここまでは。

 

それまでの話を陳腐化してしまった辿々しいエピローグ

「未来のミライ」がはっきり賛否分かれる要因は主に終盤部分に偏っていると自分は見ています。

ここに至るまでは、微細なるリアリティとアニメーションでしかなし得ない表現力で、くんちゃんの成長を見事に描写しきっていたと思います。

しかし、この終盤で積み上げてきたものがぐらついてしまいました。

未来の東京駅で繰り広げられる劇は、まるでくんちゃんを兄と認めさせ、テーマを語らせるためだけに存在していたかのようなハリボテ感満載です。

極度に雑多な東京駅構内、何故かオニババの顔をした女性、機械的な見た目の落とし物係、引き取り手のない迷子を独りぼっちの国へ送る電車…次々と常識を超える事象に立ち会いますが、どれも十分な説明もないままに出番を終えていきます。

これが本当にあっさりとしている。

これまで起こってきた超常現象って、大局的にはくんちゃんの心理に影響を与えたり、あるいはくんちゃんの内面の写し鏡のようであったりしていたのですが、東京駅のエピソードに出てくる不可解な物はことごとく物語の幹に深く絡んではいません。

作中最大のピンチ「独りぼっちの国送り」を回避するために、自分が未来ちゃんの兄であると初めて口にするシーンも、その状況の理解が追い付かないために、まったく心を揺さぶられない始末でした。嫌っていた妹を認める理由が半ばくんちゃん自身の保身のためになってしまっている点も釈然としません。

(C)2018 スタジオ地図

終ぞ明確に語られなかったタイムトリップのロジックにしても、おそらくはあの庭の樫の木が実現していたのではないかといった推測はできます。しかしながら、劇中でそれを観客が納得させられるように伝え切れていません。

そして、そのよくわからない、いきなり出てきた樹のことを「家族の歴史を記録している」と未来ちゃんがペラペラと語ってしまい、家族にまつわるヒストリーを直接的に紹介してしまいます。エピローグ以外の話では、言外に大事な意味を含ませたり、目で見て楽しめるアニメーション表現でそれとなしに伝えてくれたというのに、ここでは想像させる余地を一切与えてはくれません。

自転車に乗れなかったというお父さんの話を聞かされても、自転車のエピソードでくんちゃんを応援していた彼の姿とはまるで繋がりません。くんちゃんを叱るお母さんが、実は幼いころ同じように叱られていたというエピソードに比べると、描写の仕方が雑です。

ツバメの巣が襲われて以来、猫が苦手になってしまったというお母さん。ツバメの巣はたしかに映っていましたが、猫が苦手という描写はないので、やはり唐突な説明です。

母親犬と離れ離れになり、一家にやってきたゆっこの過去にしても、親の不在による悲しみだとか苦しみの様子がそれまでに少しでもあれば印象はもっと変わったはずです。

本当にこれまでの5つのエピソードと同じ人が作ったのだろうかと勘繰ってしまいたくなる作りでした。

さらに言うと、その説明の内容も矛盾していることが気になってしまいました。

「奇跡の積み重ねで家族はできている」と語ったミライちゃん。雛人形で婚期が遅れないようにと、時を超えて、現代に干渉してきた人の台詞としては、まるっきり不適切です。もしかしたら「婚期が遅れることで」出会うはずの人、結婚するはずの人もいたのではないでしょうか?ついでに、そもそもそんな迷信を信じてタイムスリップまでするか?という疑問もあります。

庭にあった樹が家族の歴史を記録しているというロジックにも無理があるように感じました。というのも、くんちゃんが経験したタイムスリップは、明らかに場所的な移動を遂げているからです。

最初のゆっこのエピソードとミライちゃんと初めて出会う話では、たしかに庭で不思議な現象が起こっていました。

しかし、幼いお母さんと出会う話やひいじいじと邂逅する話では、樹から遠く離れた場所でドラマが繰り広げられており、「庭の樹が記録している」という理屈に説得力がありません。

未来からやってきた猫型ロボットが持つ不思議な道具だから、タイムスリップや瞬間移動ができるといった作品を成立させるための前提ルールを観客に初期段階で共有すべきだったと思います。夏休みに公開される大衆向けの長編アニメでこれは混乱を呼んでしまいます。

(C)2018 スタジオ地図

これらの演出的な退屈さや説明不足、矛盾に目をつぶったとしましょう。

しかし、これだけは最後に言っておきたい。

なぜ、くんちゃんの未来の姿を出してしまったのでしょうか。

悠久の時を経て、数多の奇跡を積み重ね、そうしてやっと「今」がある。そして、今は更に「未来」への途上でもる。

非常に壮大で興味がそそられると同時に、何気なく空間も時間も共有している家族というコミュニティの「有難さ」を伝えてくれるメッセージにちがいありません。

だというのに、最後の最後、その容貌を見せてしまいました。無限の拡張性を持つ未来が無下にされてしまったと感じ、落胆しました。

くんちゃんは、家族の過去を知り、今に生きる兄としての自覚を獲得し、これからも生きていく。くんちゃんはどんな大人になるのか?というところは、観客の頭に委ねてほしかったです。

作品は、観客に感じ取ってもらうために、ある程度想像の導線を引くべきとは思います。ただ、想像の余地を奪うという行為は、時には無神経とも言えてしまうのです。そこが作品の難しいところで、常にクリエイターの方の頭を悩ませているのでしょう。

結末部分において観客の頭を混乱させてしまう展開に傾倒してしまい、それまで緻密に組まれてきた精美な成長記が尻すぼみになってしまった今作は、実に惜しい作品です。

 

まとめ

それまでに並べられた5つのエピソードを最後に結び大きなインパクトをもたらすはずだった今作に対しては、志は評価したいという気持ちと頓挫してしまったことへの心残りの両方が自分の感想です。

終盤に至るまでの5エピソードはどれも楽しみながら観ることができました。どこにだっている子どもを動く絵にした、ただそれだけのはずの変換に心動かされる瞬間が幾度もあり、驚かされました。

とびぬけた観察眼と着眼点はもちろんのこと、きっと子どもの仕草や言動に注意深く迫るほどの関心が細田守監督にはあるのだと思います。それはこれからも大いに活かしてほしいと願っています。

最後の最後に語り方が拙くなったものの、語っている中身はその通りだと思います。家族の成り立ちを伝えるメッセンジャーとして不格好であっても、不思議と突き放す気にはなれません。

賛否多く巻き起こっているのも、たくさんの人が注目し、観ているという証左なので、これにめげずに細田守監督には邁進してほしいと思いました。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

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