ワタリドリの手帖

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※今回の記事は、作品に対する自分の意見を述べています。結果として「リメンバー・ミー」のテーマ性と真反対の主張をしておりますが、作品批判や低評価をくだすための意図から発しているわけではありません。尚且つ、ネタバレを交えながら語っていますので、承知の上でお付き合いくだされば幸いです。


 こんにちは、春がやってきているというのに未だヒートテックに頼っているワタリ(@watari_ww)です。

 今回は「リメンバー・ミー(Coco)」について覚えた、とある違和感について語りたいと思います。
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 「リメンバ・ミー」は、当ブログでもレビューしました通り、「家族の物語」として傑作評価を与えることができるものではないかと思っています。家族に夢を反対され、家を飛び出してしまった少年ミゲルをフィルターとして、記憶される者達が生き続ける死者の国の様相と、忘れられることを恐れるヘクターのドラマを目の当たりにすることで、家族を大切に記憶し続けることの意味を考えさせる物語だったと言えます。

 ハートウォーミングな成分とピクサーらしい巧みな話運びは、万人に一定の満足感を与えてくれること間違いなし、と自分は思っています。

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記憶し、語り継げば、人は生き続ける『リメンバー・ミー』レビュー【ネタバレ】

 ただ、ほんとうにこの物語は誰にとっても良い話なのだろうか?と思ってしまうんですよね。

 というのも、この映画の結論として示された価値観は「血縁上の家族仲が良好であるならば」という前提ありきで確立されたもののように映ってしまったのです。その前提が欠けている境遇の人たちや、家族尊重の考え方に賛同できない人生を辿ってきた人にとっては、違和感を覚えてしまうのではないかと思います。

 かくいう自分も作品自体を楽しんだ上で高い評価を与えながらも、異なった視点から作品を眺めてみると、「ここはどうなんだろう?」という部分を見つけました。そのポイントを整理して、自分なりにまとめてみましたので、よろしければお付き合いください。


血縁者のみで完結する作品世界

 この作品の大きな特徴は、主たる登場人物のほとんどが血縁関係にあるという所です。死者の国という神秘的な異世界、広大で雑多な空間を舞台にしていながら、敢えてメインに据えられる人物は家族であるというミニマムさが持ち味だとも言えます。
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(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

 「スター・ウォーズ」シリーズも「最後のジェダイ」以前までは、宇宙を舞台にしておきながら、結局はスカイウォーカー家の物語でした。「リメンバー・ミー」も独特でスケールの大きな世界に家族を中心に置いたのは、普遍的な家族愛を浮き彫りにする狙いがあったのでしょう。

 リヴェラ家の血縁にないキャラクターは、
  • アレブリヘのダンテ
  • 靴磨きをしてもらっていたマリアッチ
  • フリーダ・カーロ
  • 死者の国の事務員たち
  • コンテスト参加者
  • エルネスト・デラクルス
  • デラクルスの手下
などが挙げられます。

 人間ではないダンテを除外し、出番や役割の大きさを考慮すると、堂々たる部外者はデラクルスくらいです。他のキャラクターはだいたいが賑やかしやモブのような立ち位置になっています。

 この物語では貴重な非血縁者であるはずのデラクルスは、終盤にて悪行が明るみになり、ヘクターとは対になるキャラクターです。彼の行いが肯定されることはなく、打倒されることで、物語の困難も解決するという立ち位置でした。

 上に挙げたスターウォーズは、スカイウォーカー家の物語はメインでありながらも、ハン・ソロやオビ・ワンといったキャラクターの存在が壮大な作品世界に寄与していて、群像劇的な作風もあったので一概に矮小と言い切れるような映画ではありませんでした。

一方で、「リメンバー・ミー」は、家族関係に焦点を絞り切ったため、外側からの視点や価値観があまり出てこなかったように思います。唯一の例のデラクルスもヴィランとして扱われてしまったため、リヴェラ家の愛情を善しとする一方で、彼らに属さない人たちは取るに足らない存在とも言えてしまう一面もありました。

 何よりも、家族のイザコザで終始した結果として、観客が疎外感を覚えてしまう危険性も存在します。

 あの結末に至る前に、存命中の家族たちはみな一様にミゲルに音楽を封じて、自分たちの価値観を強制する一面がありました。どんな些細なメロディを奏でることも許さず、音楽に関係する人間との接触を禁じ、もし破ってしまったら強硬な手段で封じ込めるのは極めてラジカルでした。アニメーションで描くにあたって、デフォルメに寄せる狙いもあったのでしょうが、人によっては不快な感情を抱く可能性だってあることでしょう。
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(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

 驚くべきは、ヘクターの誤解が解けた後に、それらの行いに対する後悔や反省といった描写は特になかったということ。ミゲルが家族愛を受容することによって、序盤の数々の行いはあっさりと許されてしまいました。

 ここにもし、血の繋がらない第三者が存在していたら、リヴェラ家のことを客観的に映し、観客に納得させる描き方はあっただろうと思います。しかし、リヴェラ家のみで進行した結果として、すべての観客の腑に落ちるラストにはならなかった気がします

 要するに、ミゲルの主観的な家族愛認識が客観的に見て不条理に映る家族の行いをはぐらかしてしまったのです。


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家族からの「許し」を得ないと、夢は追えないのか

 リメンバー・ミーは「家族よりも夢を愛するミゲル」を起点に始まった話であり、最終的に「家族も夢も愛するミゲル」に変化して物語は幕を閉じます。

 これはヘクターが生前、音楽を理由に家族から離れてしまったのとは真逆の結末です。​幸福に満ちた結論であると思うし、物語の展開も面白かったので、自分はすんなりと受け入れられました。しかし、視点を変えてみるとどうしても違和感が拭えないのです。

 この物語における夢の追求はあくまで家族の承認を必要としている点が問題になってきます。

 作中の「許し」がその形式上の儀式となっていました。 神聖な死者の日にギターを盗んでしまい、生者でなくなってしまったミゲルの罪を血縁上の家族が許せば元に戻れる、というのが表面上の説明でした。
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(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

 しかし、ミゲルにとって重要な「許し」の対象は、罪ではありません。音楽をやってはいけない、という条件を付された事が、ミゲルをデラクルスの捜索へと駆り立てていることからも自明でしょう。

 ミゲルは、イメルダから「音楽をやってもいいという許し」を得られないために、「音楽を許してくれる」デラクルズを求めるのです。音楽をやる志はミゲルにとって何よりも大切であり、デラクルスは目標となるべき人物でした。

 一見理にかなった流れのように見えます。でも、ミゲルは自身の夢を追い求めるためには、家族の承認がなければならない状況に立たされています。皮肉なことに、この作品でミゲルを通して描かれている「夢追い」とは、家族の承認が必要不可欠になっていて、その構造自体に違和感を覚える方もいるのではないでしょうか

 「夢>家族」を実現するために家族の「許し」に縛られるミゲルと「夢>家族」を実現したものの作品におけるヴィランのデラクルス。この2人の夢を追った結果は作中過ちとされてしまう一方で、ハッピーエンドとして描かれたのは、ヘクターがミゲルに示した「家族よりも大切な物はない(Nothing's more important than family.)」価値観です。

 そうして、「許し」を得たミゲルは家族と良好な関係で音楽を奏でる姿が描かれました。ここには、一貫して血縁上の家族の許可が敷かれていますし、序盤に描かれた家族の行いがすんなりと解決してしまっている部分に、都合のよさを感じてしまう方もいることでしょう。

 ミゲルを夢へと駆り立てるはずだったデラクルスは悪で、尚且つ血の繋がりがないため、「許し」を与えられない。ミゲルに「許し」を与えたヘクターは、善良であり、奇遇にも血が繋がっていた、という展開は少々出来過ぎな気もします。

 デラクルスは非道な行いをしていたけれど、現実には彼のように大切な人と離れてでも成功を手にした人もいるはずです。そうした人間の具現化であるはずだった彼が、悪役として処理されてしまい、ヘクターが結局家族を想っていたのは、下手すると結論ありきに取られても仕方がありません。

 自分は、夢を追い求めても家族が忘れられないヘクターの内面に共感しつつも、我武者羅に夢を追うことってそんなに悪いことなのかな?とも思いました。

 「La La Land」では夢を実現した先に待ち受けていた現実を受け入れつつも、代償に差し出してしまったものに思いをはせる姿がドラマチックに描かれていて、自分自身、そのシーンに夢追い人の人生の悲喜交々を見出しました。それと照らし合わせてしまうと、「リメンバー・ミー」は家族との絆一点に特化しすぎて、他の選択肢や例がオミットされていると感じました。
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 リヴェラ家はヘクターの事実を知って音楽に理解を示せたけれど、もしも知らないままだったらどうなっていたのだろう?という想定をすると行き詰ってしまい、自分の夢を実現するために多くを犠牲にした人にとっては、この結末は受け入れがたい要素を含んでいるのではないかとも思います。 


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家族以外にも大切な人はいるはずだ

 「忘れ去られると2度目の死を迎えて、死者の国からも消える」ルールは物語において、重要な要素でした。これは、前述の「許し」とは異なり、血縁者に限ったルールではありません。家族でなくとも、例えば大切な友人でも、記憶しておく事は出来るはずです。

 ただ、作中では家族に写真を飾ってもらう弔い以外の例が示されていません。「家族ではない誰か」との絆が前向きには描かれていないんですよね。

 夢を追求した先にある出会いは現実にもあるはずですが、「デラクルスがファンからの大量のお供えを一人で消費できず、小型のアレブリヘが盗み食いしているシーン」では、家族を棄てた彼の虚しさの方が立っています。
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(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

 この後にデラクルスが発する「世界中が私の家族だ」という台詞も一理あるとは思うのですが、ヘクターの仇であると判明した後に、これらの発言は全て虚しくなってしまいます。

 他方、お互いを家族と呼び合って心の穴を埋め合う集落では、ヘクターはチチャロンを看取りました。ここでは、色々なトラブルがありながらも、最期には見守ってもらえる仲間としてヘクターを頼るチチャロンから、2人の関係性が感じ取れて良かったです

 ただ、死者が生者から忘れ去られてしまうことは、この作品におけるバッドエンドです。ヘクターはこうなることを恐れて、記憶される道を選びました。

 カラフルな光に包まれているはずの死者の国において、あの集落は光が当たっていません。そこで、やや現実逃避的に過ごしていた死者たちの様子からは、寂しさがこみ上げてきます。贅沢を言えば、「家族ではないけれど大切な存在」を持つ人に前向きな救いを与えてほしかったとも思いました

 ここで「ぼくの名前はズッキーニ」という映画を紹介しておきたいです。この映画は、親から愛されなかった子供たちが集う児童養護施設を舞台にしており、彼らは皆、育児放棄や虐待などの被害を受けた過去を持っています。子供は親を選べないという残酷さを訴えつつも、施設での友達や好きな子との関係を得て癒されていくズッキーニの姿が描かれていて、「リメンバー・ミー」とは方向性が全く異なっているのです。
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ジル・パリス
DU BOOKS
2018-01-12


 リヴェラ家は根底に愛がある家庭として描かれていました。でも、もし愛のない家族だったら?靴作りしか認めない狭量な人たちだったら?と「ズッキーニ」を観た後だと考えてしまうのです。「リメンバー・ミー」の家族を重んじる価値観は素晴らしいと思いつつも、家族以外の関係性をもう少し前向きに描いてくれても良かったような気はします

▼合わせて読みたい
愛する人は選ぶことができる『ぼくの名前はズッキーニ』レビュー【ネタバレ】

まとめ

 リヴェラ家のような満ち足りた家族やミゲルのような二兎を追うドリーマーなどの型に当てはまらない人々にこの映画はどう映るのか?という点には疑問を持ちました。

 それを自分なりに書いてみたところ、「リメンバー・ミー」は「家族の物語」として確かに心を揺さぶる一方で、「家族以外」という目線に目を向けると途端に弱くなってしまう話なのかもしれない、とは感じました

 ただ、これって最早粗探しみたいなものですよね。明確に家族をテーマにしているのだから、そこに集中すればいいだけの話であって、その他の要素にまで配慮を求めるのは少々酷です。

 自分がここまで考えた理由は、やっぱり現代の価値観が多様化してきていることが背景にあるのかもしれません。

 ネットが発達する以前は、身の回りの人間関係に占める家族の重要性はとても大きいものでした。日本の家制度のように、長男が家長の職を継いで家族が存続していく風習が一般的だったころは、家族とは就職先でもあったわけですし、逆らうわけにもいかない強大な存在だったでしょう。血の繋がりはもちろん、精神的、経済的にも結びつきは強いのが少し前までの家族像かと思います。

 昨今になってからは、いろいろな人と関りを持てるようになり、家族の比重は薄れてきました。オンラインでも他人と知り合う機会が増え、職場や学校でも女性や外国人、その他にも色々な「人種(肌の色ではなく、人の種類)」を見かけるようになり、多様性は大昔に比べて明らかに増えてきました。個人を縛るしがらみも消え、自由にどこへでも行ける時代になったため、必ずしも家族を重んじる価値観が通用しなくなってきています。

 そんな折に、「家族」にフォーカスした作品を世に出したピクサーは、イデオロギーの原点回帰を意識したのかもしれません。家族の結びつきが良くも悪くも弱まってきた今、この作品は原始的だからこそ、逆に新鮮に感じました。

 今回挙げてきた指摘は、野暮だと感じる方もいるでしょう。自分はそれを否定することはしません。作品の取り方は十人十色なので、どんな解釈も感じ方も自由なのです

 自分自身も「リメンバー・ミー」は高評価を下し、現時点で2回劇場へ行っています。その一方で、感じた事もまた見逃せなかったため、今回の記事を書いた次第です。

 多種多様な価値観があふれる今の時代に、皆さんそれぞれが「リメンバー・ミー」をどう感じたのか、とても気になります。コメントやTwitterなどで、探るのもまた楽しいので、よろしければお聞かせください。

 長々とお付き合いいただきありがとうございました。



ジ・アート・オブ リメンバー・ミー
ジョン・ラセター
学研プラス
2018-04-17


(C)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
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コメント

コメント一覧

    • 1. 残念
    • 2018年03月31日 08:53
    • もっと突き抜けた悪評を期待してました
    • 2. ののがに
    • 2018年04月18日 00:24
    • めちゃくちゃ共感しました!
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