ワタリドリの手帖

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 こんにちは、最近親知らずを抜いたワタリ(@watari_ww)です。

 今日はアカデミー賞で作品賞、監督賞、作曲賞の4つを受賞したギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター(原題:The Shape of Water)」についての感想を語ります。
シェイプ・オブ・ウォーター (竹書房文庫)
ギレルモ・デル・トロ
竹書房
2018-02-28


 以上の功績や前評判の高さから期待値をあげての鑑賞となりました。ちなみにギレルモ監督の作品を観るのは初めてです。

 劇場で結末を見届けたのちに外へ出ると、日差しが暖かかく、眩しく感じました。振り返ってみると、この映画の評価は非常に難しいです。ひとつ確実に言えるのは、年がら年中作られている面白い作品のひとつにはなり得ないということ。異形の姿をした相手と恋に落ちる話はそれこそ「美女と野獣」であり、主人公の女性が実験材料である≪彼≫を救出する過程のクライムサスペンスチックな展開は、探せばいくらでももっとハラハラできる作品はあることでしょう。つまるところ、本作は表面的なストーリーはあまり面白くはない、とここではっきり語らせていただきます。

 では、つまらないと形容するのか?それもまた、違和感のある表現です。

 自分は、創作物においてポピュラーな題材である愛を形なきものとして描いた先進的な取り組みがこの映画の魅力だと思います。発話障害の女性と人知を超えた半魚人。ふたりは何れも、我々の多くにとって馴染みの薄い存在ですが、彼らを通じて普遍的な愛を見出させる映像表現には唸らされましたし、彼らの行く末を案じてしまいたくなる愛おしいキャラクターに心を掴まれました。

 人間対人間の恋愛を描くことが愛の表現のすべてなのか?異なる種族(に見立てた人種や宗教などのコミュニティ)同士が愛し合ってはいけないのか?といった問題は、数々のフィクションで提起されることはありました。しかし、それが当たり前のこととして描かれる作品は、僕の知る限りきわめて希です。この「シェイプ・オブ・ウォーター」は、「何故彼らは愛し合うのか?」については些末なこととして流し、水のように愛を注ぐ最中を描いているんですね。そこがこの作品の先進的な取り組みだと思っています。

 水も愛も、形はない。どちらも対象に注ぐもの。注がれた物は潤い、生気を得る。そのフェーズを切り取って、映し出した今作の感想を、自分なりにまとめてみます。

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74/100

一言あらすじ「愛の物語」


恋のはじまり

 
主人公の女性イライザは、赤ん坊のころに川に捨てられ、首元には傷跡がある。声帯に傷を負ってしまった彼女は話すことができない。夜勤であるため、いつも深夜に起きる。起床後は卵を茹で、風呂で自慰に浸り、同居人のジャイルズを訪ね、支度をする。職場へはバスで移動し、座席では帽子を枕に落ち着いて過ごす。タイムカードの列を取っておいてくれているパート仲間のゼルダと合流して、掃除仕事をする。そんな毎日をただひたすら重ねている。
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 最初のほうで破った日めくりカレンダーの裏には「時は過去から流れる川」という言葉が書かれていました。イライザはずっと続く日常に流され続け、今に至っているようです。

 南米で捕獲された半魚人が勤め先の宇宙航空センターに運ばれてきてから、日常が終わりを告げます。

 ジャイルズに連れられ好きでもないパイを食べる羽目になったり、楽しく聞いてはいるけどゼルダから夫の愚痴を聞き続けていたイライザにとって、自分で言葉を授け、卵を分け与えることができる半魚人はとても新鮮だったに違いありません。音楽を聞かせれば、共に鑑賞してくれる。最初は面白半分だったのかもしれないけれど、やがてそれが恋に移り行く。

 こうして振り返ると、恋に落ちていく部分はとても簡素です。恋愛ドラマにおいては馴れ初めに力点を置いて語られることが多いにも関わらず、今作はそれはさほど重要でもない、と言いたげなくらいにあっさりと済まされます。

 しかし、これは決して説明不足とは思いません。同じ毎日を続けていた時に、初めて異なった出来事が飛び込んでくれば人は胸を躍らすもの。
    発話障害のイライザの言葉は、ジャイルズとゼルダ以外には通じない。半魚人だって彼の言葉を理解しようとする者はいないようで、イライザに手話を教わることで初めてホフステトラーにその知能を理解されました。孤独な状態のマンネリズムに陥っていた時に、自分と似たものを持つ異性が唐突にやってきたら、胸がときめくものではないでしょうか。イライザにとってはその彼がたまたま半魚人だっただけなのです。

 最初にも述べた通り、この映画は愛の起こりは重要ではありません。愛の最中がメインなのです。


唯一まともなストリックランドの存在

 イライザ、ジャイルズ、ゼルダ、ホフステトラー、そして半魚人。彼らは皆、マイノリティです。イライザは障害を抱える者。ジャイルズは同性愛者。ゼルダは60年代アメリカとあってまだ偏見に晒される黒人のパートタイマー。ホフステトラーは、ソ連のスパイ。半魚人は言わずもがな。典型的なアメリカンと呼ぶには躊躇してしまう人たちなのです。

 この映画のメインキャラクターでアメリカ社会のマジョリティに属せる人物はストリックランドのみ。エスニシティでもジェンダーでも、虐げられることのない白人の男性。公の機関の職員であり、ホワイトカラー。既婚で子供もいて、家庭は裕福。満ち足りた境遇にいるように見えるのですが、その裏には恐ろしく非道な面もあります。
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 彼は、異物とみなした人物には容赦のない冷酷さを浴びせています。自分の理解を超えた存在である半魚人を殺すのに一切の躊躇いを見せず、同じ人間であっても敵対したソ連や北朝鮮の人間を異物化して殺すのも厭わないという思想を持っています。

 自分が考える「こうであるべき」を強制しようとする独善的な面も鼻につきます。トイレで二回手を洗うやつは軟弱者だと決めてかかる。言葉の通じない半魚人は、まさに自分の中にある常識にはめられないから排除しようとするし、妻と情交にふけっていても口をふさいで喘ぎ声を出させない。緊急時だってノックしなければ取り合わない。

 千切れた自分の指は腐敗していても、繋いでおく。千切れたら体は左右非対称。指を欠いた人間になってしまい、自分の思う自分ではなくなってしまう。綻びが露呈するのが怖いと見えます。

 半魚人を逃した件で、上官に「まとも(decent)」という言葉を用いて、自分がそうであると主張していました。いつまでまともで居続ければいいのか?失敗したらそれまでなのか?このシーンを見ていると、ストリックランドは、周囲が要求する型にはまるために努力してきたのだろうと思います。マジョリティである自分に安堵する一方で、そこから漏れてしまうかもしれない時の恐怖心は大きいのでしょう。ポジティブシンキングにまつわる本を読んでいるのは、常に付きまとう不安を中和するためかもしれません。

 とうとう失敗を咎められ、ポストを追われそうになった所で、彼の行動は過激さを増していきます。ソ連のスパイを平然と殺め、傷みつける。無理やり接着していた指ももぎ取り、ゼルダに最大限の脅しをかける。挙句に、半魚人もろともイライザを撃ってしまう。これら一連の行動は、自分が下に見ていた型にはまらぬ者達に陥れられ生じた怒りが爆発した結果のもの。彼からすれば、イライザは唖者で従順だから、簡単に手籠めにできると踏んでいました。彼女を人間的に見下しているのです。その彼女たちに、まんまと嵌められてしまい、自分の足場が揺らいでしまったら、そこに殺意が生まれるのも容易いはず。観客に嫌悪感を抱かせる差別意識をさりげなく、しかし恐ろしい形で表現したマイケル・シャノンの演技には感嘆とさせられました

 社会の一般的な型からはみ出したイライザ達が愛を実現するために奔走する今作。そこに敵対者としてストリックランドを配置したのは、ギレルモ・デル・トロの意図があるのだと思いました。古今東西の創作物で示され続けてきた一般的な愛というのは、人間の男性と女性です。更に言えば、白人と白人のような同じ人種間だったり、健常者と健常者であったりするかもしれません。ストリックランドは白人の男性で、愛する妻は白人の女性です。ストリックランドは、言わば典型的な愛の形の象徴のようです。ところが、イライザは障害を持ち、恋の相手は人間ではないのです。

 「シェイプ・オブ・ウォーター」は直訳で「水の形」。今作の水とは愛。愛とは本来形なきもののはずで、社会が決めたこうあるべきといった型はすべての人にあてはまるはずはありません。イライザのように一見奇妙に映る愛だって、紛れもなく愛。ストリックランドというマジョリティを敵対させることで、形なき愛の象徴であるイライザと半魚人がより魅力を増して映るようになっているのです


心優しいジャイルズ

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 イライザの友人ジャイルズは、パイのチェーン店で働く男性にアプローチするために、冷蔵庫にパイをため込むほど通い詰めているようでした。カツラまでつけて会いに行っていた相手からの感触はというと、あまり手ごたえはない。冷蔵庫のあの量のパイからして、覚えてもらうためにかなり来ていたのでしょうね。

 1960年代はアメリカに限らず、同性愛に対する理解など今に比べて進んでいなかったでしょうから、彼の恋愛は心痛くも実りませんでした。

 店員はそれまで親切に接客してくれたにもかかわらず、ゲイである素振りを認めるや否や冷たい態度に急変。やってきた黒人らしき客を座らせはしない。果ては、出て行けという心無い言葉を浴びせられてしまう。

 露骨な差別を受けたジャイルズは、自分を理解してくれるのが、同様の苦しみを持つイライザであることを実感し、半魚人の救出に協力します

 ジャイルズの受けた苦しみは、とても辛いだろうと思います。単に失恋しただけではなく、相手から差別的な扱いを受けてしまったのですから。しかし、彼はそれを攻撃的な方向で発散せず、イライザへの理解に換えました。ジャイルズのイライザへの友愛の心もまた愛のひとつ。作品では半魚人とイライザの性愛がインパクトに残りますが、こんな形で相手を思いやる気持ちが描かれているんですね。

 また彼は絵を描き、会社に持ち込んでまた雇ってもらおうと考えていました。時代的に絵のポスターは写真に取って代わられているため、こちらで生計を立てるのも苦しい。赤色の絵の具で描いたものを緑色にしろといわれ、ちゃんと描いて持っていくも、受け取ってもらえない。会社の人は、彼の絵なんか見ていない。対応の余所余所しさからして、厄介にすら思っているのです。事実、カメラは肝心のその絵を大きく映すこともなく、さして重要ではないように扱われています。この一連のやりとりは、皮肉にも、必死に訴えていたイライザの話を半分に聞いていたジャイルズの行いと重なっています

 重ねて言いますが、ジャイルズは決してそれを報復といった方向には向けない。関心を寄せられなかったことも、残酷に失恋してしまったことも、断ち切り、イライザへの協力に踏み切ります。そこにはイライザが嫌がっても同じパイを買い続ける彼の姿はありません。彼が手がける作品も「幸せそうな家族」とやらの様子が描かれた他人事の宣伝ポスターではなく、身近な彼女たちの姿になりました

 彼は、貧しく、愛情をまともに育むこともままならない状況だったけれども、イライザを見守ってゆくと、やがて自分が見られなかった異人種間の満たされた愛を目撃する。自分はジャイルズを自身が満たされない中で、他人に協力していく優しさを持った愛おしいキャラクターなのだと思いました

この物語の冒頭と締めのナレーションは紛れもなくジャイルズによるものです。「シェイプ・オブ・ウォーター」はジャイルズが目にしたものを我々に語っている体裁をとっています。

 しかし、そうなると私たちが見届けたイライザと半魚人のあのラストは彼が知覚し得ない闇夜の中行われているという矛盾が生じることになります。それについては、後ほど自分の見解を述べることにします。


水が何を意味するのか

 タイトルが示す通り、はとても重要な表現で、要所要所に出てきます。

 冒頭の水に沈んだ部屋、卵を茹でる水、自慰を行う時の風呂、雨、実験場の水槽、ストリックランドの飲み水、ラストの海水…。

 ひとつひとつ見ていきましょう。

 茹で卵はとても重要なアイテムです。ジャイルズやゼルダの話を受けるばかりのイライザが、初めて他人に物を与えた自立の証であり、愛の始まりでもあります。卵を意味する手話も半魚人に教え、手話が彼らのコミュニケーションツールにもなっていきます。茹で卵の数は彼との愛の進展も示していて、当初は恐る恐る1個だけを手渡しましたが、後に6個も並べていました。毎日、ルーティーンな支度をしていたイライザにとって卵の数が増えていくのは、彼女の心の豊かさにも通じてくるのです。卵が増えれば、水の嵩も連なって増える。自分が食べる分だけ茹でる時よりも、気分が上がってきているということかもしれません。

 厳密に時間をセットして行っていた自慰行為をしていたバスルームにしても、彼がやってきてからは愛の巣になりました。マスターベーションは浴槽の中で完結していたけれど、2人がセックスをした時には水は浴室全体を満たし、階下のシアターにまで漏れ出しています。水の量は性行為の満足感や愛情の勢いではないでしょうか。階下の映画館では、皆に目撃される煌びやかなドラマが上映される最中、その上で人知れずに性愛を楽しむ2人を見ていると、背徳感と高揚感を抱かせられます

 イライザが出勤する最中、降っていた雨も印象的。バスに付着した雨粒が交わっていく画は、行為の模様を思わせます。彼女はバスでは帽子を枕にして寝るのが常でしたが、ここでは些細な水すらも目に捉えて、自分と重ねているようです。

 セックスそのものを映さずに、その喜び、激しさ、事後の余韻を表現してしまう官能的な水の暗喩には心を動かされました。

 自分の記憶に深く刻まれたシーンは、ポスタービジュアルでも大々的に映る海中で抱き合うイライザと半魚人です。

 そこに至るまでを振り返ってみると、初めて会った時は水中にいる半魚人と陸にいるイライザの関係でした。水槽のガラスに隔てられたこのシーンが強烈に彼らの境を意識させているように思います。
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 研究所から連れ出して以降も陸上での活動は完全に自由ではありません。一定時間は風呂に浸かっていないと生命活動ができない状態でした。半魚人はずっと陸に居続けることはできないし、逆に水中ではイライザの呼吸が続く限りしか、2人は共に過ごせないのです。

 彼らの逢瀬には制約が付きまとい続けていたというわけであり、それが取り払われたのがあのラストなのです。半魚人が口づけると忽ちイライザの傷はエラに変わり、息を吹き返す。そうして彼らは海の中、互いを悠々と抱きしめ合うことができるようになりました。

 この時、イライザの靴が脱げていくのも見逃せません。靴は人間が地を踏むためのツール。水中では、もはやそれは必要なくなり、体から離れていく。
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 ナレーションでは、愛とは相手を知覚できなくとも、自分を包み込んでいることがわかるものだと言われていました。このシーンでは水が、彼ら2人を包み込んでいます。無形のはずの水も、容器に注がれれば、形を自在に変える。ここでは、2人が互いに愛し合う表象が水であり、水中にいる彼らの形が浮かびあがっているシーンを最後に幕を閉じました。深い青緑の海にぽっかりと彼らの形をした穴が空いているとも言えるその画は、2人の幸福の成就をありのままに表しているように見えます。


ジャイルズは真実を語っているのか

 この結末には、様々な解釈が可能であり、大別するとフィクションの可能性と、ノンフィクションの可能性双方が考えられると思います

 この映画は、始まりと終わりにおいて、ジャイルズのモノローグが入っています。彼による俯瞰視点でストーリーが語られているというのは間違いないでしょう。では、作中起きている事はフィクション(=彼の創造)なのでしょうか?

 自分が彼のナレーションを聞いて引っかかるのが、この物語を「愛と喪失の物語(the tale of love and loss)」と形容している点です。愛の物語、これについては異論ないでしょう。しかし、喪失というと一見抵抗感を覚えます。最終的にイライザと半魚人は何かを失ったとでも言いたげな表現です。

 自分なりに考えてみたところ、同様の言葉を用いる人間が現実にいました。元アップルCEOの故スティーブ・ジョブズです。彼はスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチの中で「愛と喪失(Love and Loss)」という言葉を使っていました。

 彼は、自分が立ち上げ成長させたアップルを、経営ビジョンの食い違いから、30歳の時に追い出されてしまいました。その後に紆余曲折を経て、ネクスト社と共にピクサーの経営に携わります。奇遇にもアップルがネクストを買収したため、ジョブズはアップルへ復帰を果たすことになりました。その後、彼はピクサーで得た経験をアップルでも活かし、さらなる成長を遂げたのだ…という経験談を卒業式で語ったのです。

 起業した会社をクビになる…人生をどん底に突き落とされたような気持になったに違いありません。ところが振り返ってみると、彼は最高の再スタートだったと語っており、初心を取り戻すことができたとすら言っています。彼は解雇されてもアップル社を愛していたし、クリテイティブを発揮することへの愛情も持ち続けていたようです。仕事への愛があるからこそ、喪失にもめげなかったと語り、自分が好きな仕事を追い続けることの大切さを訴えていました。

 要するに、愛と喪失は決して相反するものではなく、愛を追い求める過程で付随してくるものなのだという事でしょう。

 話を「シェイプ・オブ・ウォーター」に戻します。作中にあるバイオレンス、エロティック、グロテスクな表現の数々は、愛を扱う旧来のお伽話には含まれ難い要素です。イライザと半魚人が結ばれるまでに、死人が出ているし、最終的に彼らだって死に瀕してしまう。2人が愛し合おうとした結果、米ソの国益やストリックランド、ホフステトラーの自己実現も阻まれてしまいました。これらは、愛を実現するまでに残酷な犠牲を払っていることを意味します。現実的な重みを持つ作品だから単なる「愛の物語」ではなく「愛と喪失の物語」と言い表したのだと思いました

 この映画は喪失というリアリティを示し、「美女と野獣」的な夢物語の対岸に置こうとしているのではないか。そうなると、ジャイルズが我々に語る話は、彼による虚構ではなく、現実に起こった話ではないかと思えてきます。飼い猫を食べられたという悲惨なエピソードだって包み隠してはいないのですから。彼は冒頭に「これらの出来事は真実であると忠告しておこう。(I would just warn you, about the truth of these facts.) 」とも述べており、余計に信じたくなります(もちろんジャイルズの願望であるならば、この台詞は根本的に覆るので、決定的な証明にはなりません)。

 結論、自分はイライザと半魚人は映像のままに生き返ったのだと考えています。ジャイルズが最後に目にしたのは、息絶えたイライザを連れ海へ飛び込む半魚人の姿でした。その後については、本当に彼もわかっていない。だから、ナレーションにてイライザのことを想い、数百年前に歌われた詩≪形がわからなくてもあなたの存在を私の周りにみとめられる≫を捧げたではないでしょうか。イライザが蘇生し、冒頭の海の住処で暮していても、ジャイルズはそれを知りえない。ジャイルズは希望をもって話を結んだものの、きちんとその願いは現実化しているということなのだと思いました。


まとめ

 ここまでの自分の考えを読み返すと、正直なところかなりの願望が入っています

 しかし、映画の見方は人それぞれ。「シェイプ・オブ・ウォーター」の名が指すように、「多様であること」「定まらないこと」を肯定してくれる優しい気質がこの映画に溢れていると思います。作品の寛大さはまさに水のようであり、人の感想にも形がなくたっていいじゃないか、とそんな気がしてきます。誰かにとっては優しい話であるし、他の誰かにとっては残酷な話かもしれない。皆さんがこの作品をどうご覧になったかを見るのもまた楽しいことでしょう。

 冒頭述べた通り、表面的なお話は手放しに称賛できるものではなく、人に薦めるタイプの作品ではないかもしれません。でも、見た人同士で感想を語り合うには、最良の想像材料が散りばめられた映画だと思います。

 ギレルモ・デル・トロ監督が敢えて障害者とモンスターの恋愛を描いた理由は、多様性を重んじる作家性故だと思います。資本主義的に成功したハリウッドでは、経済のシステム上みんなが安易に望む美男美女のストーリーが量産されていて、その点では多様性が損なわれていると言えます。そんな中で、自分の作りたいものを作り、我々に届けてくれた監督の行いを心から称賛したいです。

 「シェイプ・オブ・ウォーター」はクリエイターの愛を多分に感じました。これからも自分の作りたいものを作りたいように作ってほしいです。

 
長々とお付き合いいただきありがとうございました。





シェイプ・オブ・ウォーター(オリジナル・サウンドトラック)
アレクサンドル・デスプラ
Universal Music =music=
2018-02-28


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